「デカブリストの乱」の版間の差分

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南方結社は、12月13日にペステリ大佐をはじめ指導者が次々と逮捕された。南部結社のメンバーがペテルブルクでの武装蜂起の情報を得たのは乱後、2週間経ってからであった。南部結社には、[[ロシア・ナショナリズム]]、[[スラブ民族]]の[[連邦国家]]創設を目指す「統一スラブ派」が参加しており、ペステリ逮捕後は統一スラブ派が中心になって活動した。統一スラブ派は牢獄を襲撃し逮捕された指導者たちの何人かを解放することに成功した。そのうちの1人、[[セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル]]は、[[12月29日]]チェルニゴフ連隊が武装蜂起したが、[[ぶどう弾|葡萄弾]](散弾の一種)で武装した政府軍によって[[1826年]][[1月3日]]鎮圧された。
 
[[1811年]]に皇帝[[アレクサンドル1世]]によって創設された[[ツァールスコエ・セロー・リツェイ]]で学んだ{{仮リンク|ヴィリゲリム・キュッヘリベッケル|en|Wilhelm Kuchelbecker}}や{{仮リンク|イヴァン・プーシチン|en|Ivan Pushchin}}もデカリストの運動に参加した<ref name="wada212">[[#和田|和田(2002)p.212]]</ref>。しかし、[[1819年]]に開設された[[サンクトペテルブルク大学|ペテルブルク帝国大学]]では、教授も学生もデカリスト運動とは無縁であった<ref name="wada212"/>。
 
事件後、軍事法廷で関係者579名が裁判を受けた。首謀者とされた、ペステリ、カホフスキー、ルイレーエフ、ムラヴィヨフ=アポストル、[[ミハイル・ベストゥージェフ=リューミン]]の5人は[[絞首刑]]を宣告された<ref name="kuramochi145">[[#倉持|倉持(1994)pp.145-146]]</ref>。その他のデカブリストは、[[シベリア]]、[[極東]]、[[カザフ]]などに[[流刑]]を宣告された。シベリア送りは106人にのぼったが、これら流刑となった夫の後を追い、11人の妻が貴族身分を放棄してシベリアへ向かったことは、ロシアでは夫への献身の象徴と見なされている<ref name="kuramochi145"/>。流刑囚となったデカリストは20歳代が多く、既婚者は18人であった<ref name="kuramochi145"/>。また、デカブリストの指導者と交際があった詩人の[[アレクサンドル・プーシキン]](リツェイ出身)、[[アレクサンドル・グリボエードフ]]、{{仮リンク|アレクセイ・エルモーロフ|en|Aleksey Petrovich Yermolov}}らは当局の監視を受けた。
 
事件直後から、この運動は[[インテリゲンチャ]]のみならず、ひろく民衆の同情と共感を集めており、流刑者となったあるデカリストは、その友人への書簡のなかで、シベリアで知り合った人が、まるで親類か従前からの恩人でもあるかのように親切に接してくれていると書き残している<ref name="kuramochi145"/>。流刑囚のうち生存者は、こののち、[[1850年代]]になってから皇帝[[アレクサンドル2世]]の[[大赦]]によって帰郷がかなえられた<ref name="kuramochi145"/>。
 
==評価==
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