「太穆竇皇后」の版間の差分

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竇毅はいつも「この娘は才能も容貌もこのとおりであり、みだりに人に嫁がせてはいけない。賢い夫を求めるべきだ」と襄陽長公主に言っていた。門の屏の間に2羽の孔雀を描き、求婚する諸公子に2本の矢を射させて、目に当てることができた者に彼女を嫁がせると約束した。射る者は数十を数えたが、みな当てられなかった。祖父の[[李虎]]の時代から費也頭と縁の深かった李淵が最後に射たところ、おのおの一目に当てたので、李淵に嫁ぐことになった。このことが後に隋末の動乱時、李淵の諸子(のちの太宗ら)が、いち早く費也頭の強大な軍事力と結びついて長安を押さえ、唐朝を樹立する上で大きな力になったとされる。
 
李淵の母の独孤氏({{仮リンク|[[元貞独孤皇后|label=元貞皇后|zh|元贞皇后}}]])は老いて病となったが、性格が気難しく、李家の夫人たちはみな恐れて介護しようとしなかった。竇夫人ひとりだけがつつましく元貞太后に孝事して、自分の着替えもせずに付き添った。竇夫人は文章が得意で、文体は雅であった。また書をよくし、李淵と書を並べたとき、世の人は論評することができなかったという。
 
李淵が母方の従兄に当たる[[煬帝]]の下で[[扶風郡]][[太守]]となったとき、多くの駿馬を蓄えていた。竇夫人は「上は馬好きでいらっしゃいます。どうして献上なさらないのですか? いたずらにとどめていても罪を得るばかりで、無益でありましょう」と言った。李淵は聞き入れず、はたして譴責を受けた。