「文禄・慶長の役」の版間の差分

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==== 仮途入明 ====
天正19年(1591年)3月、通信使は朝鮮国王に報告した。しかし、彼らが来日中に朝鮮朝廷では政変があって西人派の[[鄭テツ|鄭澈]]が失脚<ref group="注" name="teiitu" />して東人派の[[柳成龍]]が左議政となっていた<ref>{{Harvnb|北島|1995|loc=p.25}}</ref>。黄允吉が「必ず兵禍あらん」と戦争が切迫している事実を警告したが、対抗心をむき出しの金誠一が大げさであると横やりを入れ<ref group="注">金誠一はこのとき「必ず来寇があるとは限らない」という曖昧な否定論を述べた。翌年4月23日、日本軍が席巻する中で彼は慶尚右兵使の職務にあったが、解任逮捕された。しかし再び東人派の援護で、直後に慶尚右招諭使に任命されて、義兵の徴募に当たった。{{Harvnb|徳富|1935|ref=aa|loc=p.398}}</ref>、全否定して口論になった。柳成龍が同じ東人派の金誠一を擁護して彼の意見が正しいことになり、黄允吉の報告は無視された。通信使に同行した[[#朝鮮の軍組織|軍官]]黄進はこれを聞いて激怒し、「金誠一斬るべし」といきり立ったが周囲に止められた<ref>{{Harvnb|参謀本部|ref=staff1|1924|loc=p.19}}</ref>。人事の変更と若干の警戒の処置は取られたが、対日戦争の準備はほとんど行われなかった。「倭軍」の能力を根拠なく軽視したり、そもそも外寇がないとたかを括る国内世論で、労役を拒否する上奏が出されるほどだった<ref>{{Harvnb|柳|長野|1921|loc=pp.13-14}}</ref>。([[#朝鮮の軍備|朝鮮の軍備を参照]])
 
玄蘇と柳川調信<ref group="注">対馬の士は対外上は朝鮮陪臣でもあり、柳川調信は先の引見で朝鮮国王より[[嘉善大夫]]の爵位を授与されていた。{{Harvnb|参謀本部|ref=staff1|1924|loc=p.18}}</ref>が[[倭館|東平館]]に滞在中、宣慰使(接待役)[[呉億齢]]らは日本の情勢を聞き出そうと宴席を設けた。すると(秀吉ではなく宗氏の意向を汲む)玄蘇は「中国(明)は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じていない。秀吉はこのことに心中で憤辱を抱き、戦争を起こそうとしている。朝鮮がまず(このことを)奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もないだろう。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができる」<ref name="ri20-21" /><ref name="kita26" />と主張した。しかし、これは朱子学の正義に合わないため、金誠一は大義に背くと批判し、口論となった。玄蘇は「昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃した。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことだ」<ref name="ri20-21">{{Harvnb|柳|長野|1921|loc=pp.20-21}}</ref><ref name="kita26">{{Harvnb|北島|1995|loc=pp.26}}</ref>と熱くなって反撥したので、朝鮮側はこれに対して何も言い返さなかった<ref name="ri20-21" />。5月、朝鮮朝廷は「日本は朋友の国で、大明は君父である」として仮途入明の要求を拒否し、宗氏が別に要求した斉浦と監浦の開港も拒否した。玄蘇と調信は国書を手に対馬に戻った<ref name="toyou">{{Citation|和書