「武家諸法度」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1615年]]、[[大坂の陣]]によって[[豊臣家]]を滅ぼした[[徳川家康]]は、諸大名を[[伏見城]]に集め[[徳川秀忠]]の命という形で諸大名統制のための全13ヶ条の法令を発布した。これを武家諸法度といい、年号を取って'''元和令'''とも呼ぶ。元々は[[1611年]]に家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条で、これに[[以心崇伝]]が起草した10ヶ条を付け加えたものである。主として文武や倹約の奨励といった規範を旨としており、それ以外に豊臣政権でも見られた大名同士の婚姻の許可制や、領内に逃げた罪人を匿うことを禁じるなどの統治の制限が含まれていた。この中の居城修補の届出制は、後に[[福島正則]]の[[改易]]に繋がったことでも知られ、しばしば武家諸法度違反が大名の改易に用いられた
 
元々は[[1611年]]に家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条で、これに[[以心崇伝]]が起草した10ヶ条を付け加えたものである。
その後、将軍の交代と共に改訂が続けられ、[[徳川家光]]が[[参勤交代]]の義務付けや[[大船建造の禁]]に関する条文を加えた[[1635年]]の'''寛永令'''、[[徳川綱吉]]の[[殉死]]の禁止や[[末期養子]]の緩和などを定めた[[1683年]]の'''天和令'''、最後の改訂となる[[徳川吉宗]]の[[1717年]]の'''享保令'''(実質は天和令)が知られる。
 
主として文武や倹約の奨励といった規範を旨としており、それ以外に[[豊臣政権]]でも見られた大名同士の婚姻の許可制や、領内に逃げた罪人を匿うことを禁じるなどの統治の制限が含まれていた。特に、この中の居城修補の届出制は、後に[[福島正則]]の[[改易]]に繋がったことでも知られ、しばしば武家諸法度違反が[[大名]]の改易の理由に用いられた。
 
その後、将軍の交代と共に改訂が続けられ、[[徳川家光]]が[[参勤交代]]の義務付けや[[大船建造の禁]]に関する条文を加えた[[1635年]]の'''[[寛永]]令'''、[[徳川綱吉]]の[[殉死]]の禁止や[[末期養子]]の緩和などを定めた[[1683年]]の'''[[天和]]令'''、最後の改訂となる[[徳川吉宗]]の[[1717年]]の'''[[享保]]令'''(実質は天和令)が知られる。
 
== 各法令 ==