「迷宮 (同人サークル)」の版間の差分

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[[2008年]]12月、[[霜月たかなか]](原田央男)による『コミックマーケット創世記』が上梓された。米澤没後に無責任な放言が跋扈することに危惧を持ち正確な記録を残すことを目的とした。記録の正確を期すために当時の関係者一同を招いた「記録集会」を[[2007年]]から[[2008年]]にかけて本郷の更新館にて4回に渡って開いた。4回ともに徹夜の集会となった。「記録集会」にはオブザーバーとしてCOMの元編集者も招かれた。
 
米澤の没後4年を経た[[2010年]]10月23日に、米澤嘉博記念図書館にて「コミックマーケットの源流」展の関連イベントとして行われたトークショー「コミケ誕生打ち明け話」に亜庭じゅん、原田央男、高宮成河の三人が出席した<ref name="トークショー1">「亜庭じゅんさん。10月の米トのイベントでお会いした時、館用の色紙にサインをお願いしたら『まるでパンダだな〜』っておっしゃるので、『ちがいます!ロックファンにとってのミック・ジャガーが来日したようなものです!』と言うと、はははって笑って、高宮さんといっしょにサインしてくださった。」[https://twitter.com/yamatomo413/status/28370914009677824 「ヤマダトモコ[神奈川-神保町近辺]Twitter」]閲覧日2014年4月30日</ref><ref name="トークショー2">「亜庭じゅんは年来の病が漸く重篤に至り、入退院を繰り返す中、悪化する体調を押しての出席だった。前日から近隣に夫人と宿をとり、万全を期した。この日は思いの外体調が良く、二次会にも最後まで付き合う元気さを見せたが、三ヶ月後の1月21日永眠。これが多くの友人達への告別の機会となった。」「コミケ誕生打ち明け話  編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)735P</ref>迷宮として公開の場に顔を揃えるのは30年ぶりのことだった。会場には三人に並んで米澤の席も設けられていた。世話人を務めた[[森川嘉一郎]]は[[Twitter]]で「ほとんど宿命のようなトークショー」と記した<ref name="森川">[https://twitter.com/kai_morikawa/status/28042559400 「森川嘉一郎Twitter」]閲覧日2014年4月8日</ref><ref name="打ち明け1">[http://ultrajumpegg.com/#/column/0006/0019/01 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート1」]閲覧日2014年4月13日</ref><ref name="打ち明け2">[http://ultrajumpegg.com/#/column/0006/0020/01 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート2」]閲覧日2014年4月13日</ref><ref name="打ち明け3">[http://ultrajumpegg.com/#/column/0006/0021/01 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート3」]閲覧日2014年4月13日</ref>。
 
トークショーから3ヶ月後の[[2011年]]1月21日には亜庭じゅんが鬼籍に入った。没後3ヶ月経った4月24日、亜庭じゅんを偲ぶ会が、迷宮'11と亜庭夫人との共催で、東京・山の上ホテルで開かれ、多くの友人知己が集まって故人を偲んだ。会の前半の受付は[[米澤英子]]と安田かほるが務めた。
 
[[2012年]]1月22日に、板橋産業連合会館<ref name="板橋">1980年夏に最初のMGM(まんが・ミニ・マーケット)が開かれた場所であると同時に、1976年4月4日に開催の、第2回コミケットの会場にもなった場所である。第1回が行なわれた日本消防会館が往時の姿を留めない現在、現存する「同人誌即売会」の原点を示す場所をMGM再開に選んだことになった。</ref>に会場を移し、亜庭じゅんと共にMGMを支えてきた[[長谷川秀樹]]と往時のスタッフによってMGM98が開催された<ref name="再開">昼間たかし[http://www.cyzo.com/2012/02/post_9754.html 「歴史・人物・雰囲気......同人誌即売会の原点が一挙に集結!『MGM』が5年ぶりに開催」『日刊サイゾー 2012年2月1日』]閲覧日2014年4月8日</ref>。
 
亜庭じゅん没後一周忌を期して高宮成河・原田央男編集による亜庭じゅん遺稿集・『亜庭じゅん大全』が、30年ぶりの『漫画新批評大系』vol.16として刊行された。表紙カバーを亜庭が「一番好きなまんが家」と言っていた[[樹村みのり]]のイラストが飾り、村上知彦と原田央男がそれぞれに亜庭じゅんの「言葉」と「同人誌即売会」への評言を寄せた遺稿集はA5判2段組み・800ページを越える大冊となった。[[2011年]]冬のコミケットで部数限定で先行発売したが、[[2012年]]1月22日、一周忌の翌日のMGM98が正式の発売日とされた<ref name="大全1">「『漫画新批評大系vol.16』として刊行された故・亜庭じゅんの遺稿集。亜庭はコミックマーケットの母体となった漫画批評集団『迷宮』の主要メンバーで、同サークルが発行していた同人誌『漫画批評大系』の主筆を務め、創作漫画専門の同人誌即売会『MGM』の創設者でもあった(『アイデア』348号参照)。亜庭はアマチュアであることを全うしたふしがあり、商業媒体にはほとんど執筆せず、表舞台には名を残していない。しかし本書に収録された主として1970年代に書かれた批評、当時のアマチュアへ大きな影響力を与えたと言われるそれらの、30年以上を経てなお通用する強度は素晴らしい。自己批判も含め変革へ向けた運動体としてのファンダム論は歴史的史料として扱うことになるだろうが、戦後まんが史を『サザエさん』対『鉄腕アトム』の総力戦と捉える視点の新鮮さなどは今でも十分刺激的である。村上知彦自身による『ぼくら語り』と亜庭についての原稿を含め、この本の刊行によって漫画批評史を修正する必要が出てくることは間違いない。」ばるぼら「書評」『アイデア351号』(誠文堂新光社 2012年2月10日)186P</ref><ref name="大全2">「『迷宮』の目指していたことは、マンガについての『改革運動』でした。24年組にせよ、三流エロ劇画にせよ、新しいマンガの発生する『現場』をつねにフォローアップする挑戦だったと理解しています。ですから、あにじゅんの遺作集を、故人の追悼刊行だけに留めずにおこうという意図を『迷宮』同人達からのメッセージとして感じます。」赤田祐一「『ぐら・こん』は、ちょっといい夢だった(中編)」『スペクテイター第25号(COMの時代  第四部)』(エディトリアル・デパートメント  2012年6月5日)148P</ref>。
 
[[2013年]]1月27日100回目のMGMが開催された。その事後集会で迷宮主催とする即売会はこれを最後とすると宣言され、亜庭じゅんのMGMは完結することになった。続いてMGMの古くからのスタッフである壬生頼之によって新しい同人誌即売会をMGM2.0として起動することが参加サークルの賛同によって決定した。MGM100のカタログには長谷川英樹、亜庭夫人の挨拶と共に、亜庭じゅんのコミケット17での発言の採録、高宮成河と原田央男の原稿も掲載され、亜庭MGMの最後を締めくくるカタログとなった<ref name="終了">昼間たかし[http://www.cyzo.com/2013/02/post_12466.html 「コミケがなくなっても、戻れる場はあった──100回を迎えた同人誌即売会・MGMの意義」『日刊サイゾー 2013年2月3日』]閲覧日2014年4月8日</ref><ref name="間宮">MGM100には旧作ではあったが亜庭じゅんとの共作まんがを小冊子にしたものを抱えて、まんがせえるの主要スタッフだった間宮レイもサークルとして参加した。サークル名は「亜庭じゅん未公認F.C」を使った。同人誌即売会への30年近い空白を越えてのサークル参加は、MGMの最後に花を添えるとともに、まんがせえるの終了時に亜庭じゅんから贈られた花束への返礼ともなった。</ref>。迷宮の手を離れた「MGM2.0」は、初回となるMGM2.01<ref>2.XXのXXが回次をあらわし、2.02、2.03、2.04…となる。</ref>が[[9月8日]]に開催され、以降も存続している。