「松永久秀」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 出自と登場 ===
[[永正]]5年([[1508年]])生まれ{{Sfn|天野(編)2017|pp=8、25|ps=、<ref group="注釈">史料は「[[多聞院日記]]」永禄11年(1568年)2月19日条に「当年六十一歳」と記されている。</ref>}}。出身については、[[阿波国]]・[[山城国]][[西岡]](現在の[[西京区]])・[[摂津国]]五百住の土豪出身など諸説がある。長江正一は西岡出身の商人の生まれで、[[斎藤道三]]と同郷であったと断定している{{Efn|道三も西岡出身で、天文年間に守護代から[[土岐氏]]を乗っ取ったという道三の経歴は、久秀の食指を動かしたに違いない、と、長江正一は指摘している{{Sfn|長江|p=212}}}}
しかし、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではないかと思われる資料が発見{{Sfn|1964年から作業が開始された『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」による。}}されたことから、同郷だと当てはめるのは困難だとされ、2012年からは[[摂津国]]五百住の土豪出身の説も大きくなっている{{Sfn|天野(編)2017|pp=30-31|ps=、中西裕樹「松永久秀の出自と末裔」}}。[[阿波国]]説は、同国市場犬墓村(現・徳島県阿波市[[市場町犬墓]])旧家の由緒書に基づくが、長慶父の[[三好元長]]が阿波国から渡海し畿内入り戦闘時の史料に松永姓の武将はいないし、その諸将は後にほとんどが、[[三好実休]]に従い、阿波へ帰国しているので、史実性はなくなっている{{Sfn|天野忠幸|2018|pp=28-29}}。
 
[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])か天文3年([[1534年]])頃より[[細川氏]]の被官・[[三好長慶]]の[[右筆]](書記)として仕えたと言われている。史料における初見は天文9年([[1540年]]){{Sfn|天野2014|p=158}}と言われている。天文9年(1540年)6月9日、長慶が[[西宮神社]][[連歌#歴史|千句講]]用の千句田二段を門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状を33歳の久秀が[[弾正台|弾正忠]]の官名で伝達している{{Sfn|天野2014|p=158}}{{Sfn|天野忠幸|2018|p=17}}{{Sfn|今谷・天野|p=151}}。同年12月27日、堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵[[判物]]にも久秀が副状を発給しており、このころ奉行の職にあったとみられる{{sfn|天野2014|p=37}}{{Sfn|天野忠幸|2018|p=17}}。
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