「メフメト3世」の版間の差分

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彼が即位した時には19人の男子の兄弟がいたが、伝統に従い止むを得ず全員殺してる。宮廷を出る前スルタンとその子供たちの棺の列があまりにも長かったため、人々は哀れみ、嘆き悲しんだという。このため、次に即位したアフメトは弟のムスタファを殺さずに残し、以後、新スルタンの即位する時の兄弟殺しは、行われなくなった。
 
ハンガリーでの長期戦争では、1596年にエゲルを占領し、メフメト3世率いる軍がメゼーケレシュテにおいて、ハプスブルク軍を打ち破ったが、1598年にはかつて占領したジュールがハプスブルク側に奪還された。1600年にはオスマン軍はカニジャを占領するが、戦いはしだいに辺境の城塞をめぐる争奪戦の様相を呈した。
 
ハプスブルク家とハンガリーを巡って戦争してる頃、足下のアナトリアやシリアでは、反乱が相次いでいた。その反乱者はジェラーリーといった。その反乱の第一波は1596年に始まる。ジェラーリーらは下級軍人のカラ・ヤズジュの反乱に合流をした。オスマン側はハンガリー戦線に忙殺され、その討伐に十分な兵力を割けない事態になった。カラ・ヤズジュは1602年に死んだが、その兄弟のデリ・ハサンがあとをついだ。また、他の地方でも、ウズン・ハリルの乱、カレンデルオールの乱などが起きた。これらの反乱はハプスブルク家と戦争中であったため、なかなか対処できなかった。