「ラムセス2世」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[File:Ramses II at Kadesh.jpg|thumb|220px|左|カデシュの戦いでのラムセス2世(アブ・シンベル神殿の壁画)]]
年代には諸説あるが、24歳で即位し、66年間統治し、90歳で没したとされる。その間、第1王妃[[ネフェルタリ]]のほか、何人もの王妃や側室との間に、賢者として名高い[[カエムワセト (ラムセス2世の息子)|カエムワセト]]、後継者となる[[メルエンプタハ]]など111人の息子と69人の娘を設け、娘の中には父親であるラムセス2世と[[親子婚]]を行った者もいる。もっとも、この大半は養子であり、王の息子の称号を与えられただけだという説もある。しかし、非常に大柄(約180cm)であり、優れた戦士であったことが伝わっているラムセス2世が多くの子を残さなかったとは考えにくく、彼らは王の実子であると考える者もいる。
 
父親のセティ1世との共同統治を経て、紀元前1304年、ラムセス2世は父王の死後、約25歳(一説には24歳とも言われているが、はっきりとはわかっていない。)の時にファラオに即位したと思われる。王妃は「神后」ネフェルタリであった。
 
当時の中東地域では、多数の小国の帰属を巡り、[[製鉄]]技術を背景とした強大な勢力を有する[[ヒッタイト帝国]]とエジプトが争っていたが、ラムセス二世は治世第5年の[[紀元前13世紀|紀元前1286年]]、総勢2万の兵を率いて[[カデシュ中東へ戦い]]に[[親征]]を開始した。ラムセス2世が中東へ遠征を行うのは初めてであった。エジプトを離れたラムセス2世は[[ヒッタイト帝国]]に属していた小国アムルを降伏させ、エジプトに帰属させた。当時の中東地域は世界で初と云われている製鉄技術を持っていた[[ムワタリ2世]]の支配する[[ヒッタイト帝国]]が強大な勢力を有しており、エジプトとの間に多数存在していた小国の帰属をめぐり争っており、アムルの奪還失陥見逃さなかったヒッタイトは見逃さかず、アムル奪還のために軍を出すことを決めた。派兵し、その結果として「[[カデシュの戦い]]」が勃発した。
 
ラムセス2世は[[ムワタリ2世]]率いる[[ヒッタイト]]帝国軍と[[カデシュ]]の地で争った。エジプトは[[偽情報]]に踊らされた結果有力な軍団を壊滅させられるなど苦戦しつつも、ラムセス2世の武勇によって勝利を収めたが、ヒッタイト勢力を[[パレスチナ]]から駆逐するには到らなかった。両者ともに相手を退けるに到らず、長年戦争を続けたのち、ラムセス2世の第21年(紀元前1269年)、エジプトとヒッタイトは[[{{仮リンク|エジプト・ヒッタイト平和条約|label=平和条約]]([[:|en:|Egyptian–Hittite peace treaty]])}}を結んで休戦し、ラムセス2世はヒッタイト王女を王妃に迎えた。これは世界史で最初の平和条約と呼ばれる。条約文はヒッタイトの首都[[ハットゥシャ]]の粘土板やエジプトの神殿の壁面でも発見された。彼は多くの神殿をエジプトの神々にささげたが、自らを太陽神としてあがめさせた、彼の建設したアブシンベル神殿をはじめとする神殿には神々に列する彼の姿が多く残されている。
 
また、カデシュの戦いにおけるラムセス2世の勝利の喧伝は、エジプト軍の軍制改革の妨げとなり後に災いを残すことになる。ラムセス2世はこの戦いの栄光を自賛するため宮廷書記ペンタウルに詩を作らせ、[[カルナック神殿]]からアブ・シンベルに至るまでの大神殿の壁に詩を彫らせた。