「ヴィルトゥオーソ」の版間の差分

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しかしながらヴィルトゥオーソの華麗な技巧や表現力は、多くの作曲家や、さまざまな楽器の演奏家を触発した。パガニーニの主題による作品は、[[フランツ・リスト|リスト]]、[[ローベルト・シューマン|シューマン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[ラフマニノフ]]、[[シマノフスキ]]、[[ナタン・ミルシテイン]]、[[ルトスワフスキ]]、[[ボリス・ブラッヒャー]]らが手がけており、パガニーニの演奏そのものは、[[ハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト]]らの後進演奏家に啓示をもたらした。[[パブロ・デ・サラサーテ|サラサーテ]]の演奏は、[[サン=サーンス]]や[[ブルッフ]]に代表作を残させたほか、ブラームスと[[チャイコフスキー]]にも影響を与えている。さらに、[[シベリウス]]の協奏曲は、ブラームスとチャイコフスキーの両方に影響を受けているため、間接的にサラサーテの影響を受けたことになる。またパガニーニやリストの演奏技巧は、それぞれヴァイオリンやピアノという楽器の変革を促す大きな要因となった。
 
ヴィルトゥオーソは伝統的に[[楽譜]]を自由に扱う傾向があり、自作を譜面どおりに演奏しないだけでなく、しばしば他人の作品でさえ、書かれていないパッセージを演奏・挿入したり、書かれた音符を任意に飛ばすこともあった。たとえば[[ラフマニノフ]]のいくつかの録音は、その典型例として当時から物議を醸した)。ヴィルトゥオーソは、このようにしばしば「解釈の恣意性・独断性」と結びついたため、その反動として、反ロマン主義を標榜した新古典主義音楽の時代に、「楽譜への忠実さ」が求められるようになった。しかし、新古典主義の作曲家がバロック音楽を美化したにもかかわらず、おおむねバロック音楽の作曲家は、楽譜が自由に扱われることを前提に記譜する習慣をもっていた。バロック音楽から[[古典派音楽]]の作曲家は、たいてい何らかの楽器のヴィルトゥオーソであった。例外的に自分の意図を明確に楽譜に固定しようとしたのは、[[バッハ]]ぐらいのものであり、[[ヘンデル]]の組曲やソナタは、演奏者による再構成がしばしば必要になると言われている。
 
ヴィルトゥオーソはしばしば熱心な支持者の賛美や崇拝の対象となる。19世紀のヴィルトゥオーソへの熱狂は、同時期の[[天才]]崇拝に似た流行であり、とりわけヴィルトゥオーソが自作を披露する場合に、ヴィルトゥオーソ熱と天才崇拝が重なり合うことが多かった。ヴィルトゥオーソの側でも自分の天才性や神秘性を意識し、めったに教育に興味を示さないばかりか、自らの練習風景を他人に聞かれることさえ疎んじた(たとえば[[ホロヴィッツ]]は、公認の弟子を一人しかとらなかった)。自作の演奏をミサや秘儀の挙行になぞらえていた[[スクリャービン]]は、ヴィルトゥオーソの[[カリスマ]]性についてよく認識していたといえるだろう。
 
権威ある名演奏家が名演奏家を育てるシステムが、19世紀末の欧米に一般化してから、多少の変化が見え始めた。しかしながら現代になっても、ヴィルトゥオーソが次世代のヴィルトゥオーソを育てる環境や体制が整っているとは言いがたい。[[アルフレッド・コルトー]]、[[ラフマニノフ]][[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ナタン・ミルシテイン|ミルシテイン]]や[[ジョーゼフ・ギンゴールド|ギンゴールド]]のような例外もあるものの、それでもなお有名になった門人の数は多くない。[[ヴァルター・ギーゼキング|ギーゼキング]]や[[ハイフェッツ]]から、同様な技巧と知名度を持った直系の弟子は出ていないといっても過言ではない。対照的に、国際的に名ヴァイオリニストの養成者として有名だった[[ドロシー・ディレイ]]は、本人が世界的なヴィルトゥオーソとして活躍した経験がなかった。
 
ヴィルトゥオーソは、一般的には特定の個人を指して使うのが普通であるが、時には、「ベルリン・フィルやシカゴ交響楽団は、ヴィルトゥオーソの団員ぞろいだ」というような言い回しの中にも現われる。