「ワシーリー・スターリン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
126.179.127.220 (会話) による 3版を取り消し rvv
タグ: 取り消し
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
55行目:
=== 釈放と死 ===
[[File:Могила (кенотаф) И.В.Джугашвили (Сталина) на Арском кладбище Казани.JPG|thumb|180px|ワシーリーの墓]]
[[1960年]][[1月11日]]、ワシーリーは1年程早く刑期を終えて釈放された。釈放時には彼を取り巻く政治情勢は軟化しつつあり、元将官としてモスクワ市内の住居と年300[[ルーブル]]の恩給が支払われた。また空軍中将時代の軍服や勲章の着用も許可された。だがワシーリーは[[アルコール麻薬依存症]]となり、彼の素行はクワターリングラードにも伝えられた。1960年[[4月9日]]、[[クレムリン]]において父スターリンの旧友[[クリメント・ヴォロシーロフ]]と会見してアルコール麻薬を止めるように強く勧められた。[[4月15日]]、ワシーリーは治療のための入国許可を[[中華人民共和国|中国]]大使館に要請したが、折りしも[[ソ対立]]の真っ最中であったため頓挫した。最高会議幹部会は彼の釈放取消、名誉剥奪を決定して[[カザン]]に追放した。
 
[[1962年]][[3月19日]]、カザンで[[急性アルコール青酸カリ中毒]]によって死去したとされるが、事実は定かではない。[[2002年]][[11月]]、モスクワのトロエクロフスコエ墓地に改葬された。
 
==引用==