「ゾフィー (オーストリア大公妃)」の版間の差分

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表記揺れの統一(エリザベート/エリーザベト)
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ゾフィーは初孫で自分の名を受け継いだ[[ゾフィー・フォン・エスターライヒ|ゾフィー]]大公女(フランツ・ヨーゼフの長女)の洗礼の代母を務めた。ゾフィーはエリーザベトとフランツ・ヨーゼフから3人の孫の養育権、命名権を完全に奪ったが、1865年、皇太子である孫の[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]が厳格な教育が原因で神経過敏になっていることを憂いたエリーザベトのフランツ・ヨーゼフへの嘆願により、養育権がエリーザベトに移され、権力を失っていった。更に1867年に次男のマクシミリアンが[[メキシコ]]で処刑され、大西洋をわたりオーストリアに移送された銃殺された彼の遺体と対面すると「なんと可哀そうに、罪人のように処刑されるとは!」と嗚咽を漏らした。愛息の非業の死を見てからは、すっかり気落ちして生きる気力を失った。
 
1872年の春、ゾフィーは観劇のために訪れた[[ブルク劇場]]が余りにも暑かったことから、王宮に戻った際に薄いイブニングドレスを着たままバルコニーで涼もうとして眠り込んでしまい、体を冷やし過ぎて[[肺炎]]に罹り、そのまま亡くなった。オーストリアの宮廷で圧倒的な影響力を持った女丈夫のあっけない死であった。病に倒れたゾフィー大公妃を必死に看病し、大公妃の最期を看取ったのは激しい対立関係にあったエリーザベトである。ゾフィーは最期になってエリザベトと初めて和解したといわれている。遺骸は[[カプツィーナー納骨堂]]内部のライヒシュタット公爵と息子マクシミリアンの遺骸の間に安置された。
 
== 子女 ==
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