「アルブレヒト・アヒレス (ブランデンブルク選帝侯)」の版間の差分

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| 没地 = {{HRR}}<br>[[帝国自由都市]][[フランクフルト・アム・マイン]]
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| 埋葬地 = {{HRR}}<br>[[File:Flag of Brandenburg (1340-1657).svg|border|25px]] [[ブランデンブルク辺境伯領]]、[[ハイルスブロン]]修道院
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副え名の「アヒレス」(=[[アキレウス]])は、後の[[教皇]][[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が授けたものである。彼は戦争司令官として、あるいは外交官として政治上の活動を続けた。彼がブランデンブルクの統治権を手に入れた後、[[1472年]]に年来の[[ポメラニア公国|ポンメルン]]との戦争終結に成功した。
 
[[1473年]]にホーエンツォレルン家の家内法としてDispositio AchilleaAchillea(アヒレスの処分状)』を策定した。これは、ブランデンブルク選帝侯領の分割について文書化して定めたものである。この文書は選帝侯位について、その時の最年長の息子だけがこれを継承することを定めた。同年、アルブレヒトはブランデンブルク選帝侯位の第一相続人として長男の[[ヨハン・ツィーツェロ]]を指名した。
 
[[1460年]]に[[アンスバッハ]]を宮廷所在地と定め、[[1469年]]にはゼッケンドルフの[[レーエン]]であったトリースドルフを獲得した。トリースドルフは、後にブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯の狩り場となる。