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[[渋井太室]]らに師事する。[[寛政]]5年([[1793年]])、[[林錦峯]]の死去で途絶えた林家を継ぎ、[[江戸幕府|幕府]]の文書行政の中枢として幕政に関与する。[[文化 (元号)|文化]]年間における[[朝鮮通信使]]の応接を[[対馬国]]で行う聘礼の改革にもかかわった。[[柴野栗山]]・[[古賀精里]]・[[尾藤二洲]]([[寛政の三博士]])らとともに[[儒学]]の教学の刷新にも力を尽くし、[[昌平坂学問所]](昌平黌)の幕府直轄化を推進した([[寛政異学の禁]])。
 
述斎の学問は、[[朱子学]]を基礎としつつも[[清]]朝の[[考証学]]に関心を示し、『[[寛政重修諸家譜]]』・『[[徳川実紀]]』([[成島司直]]と共同)・『[[朝野旧聞ホウ藁|朝野旧聞裒藁]]<small>(ちょうやきゅうぶんほうこう)</small>』・『[[新編武蔵風土記稿]]』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した[[漢籍]]([[佚存書]])を集めた『[[佚存叢書]]』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園([[小石川]])・賜春園([[谷中 (台東区)|谷中]])を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「[[慶安御触書]]」として出版した。
 
== 門人 ==