「春日虎綱」の版間の差分

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| 兄弟 = [[春日熊麿|熊麿]]、'''虎綱(高坂昌信)'''
| 妻 = 正室:'''香坂宗重の娘'''
| 子 = [[高坂昌澄|昌澄(源五郎)]]、'''[[高坂昌元|信達(次郎)]]'''、[[高坂昌定|昌定(惣五源三郎)]]
| 特記事項 =
}}
== 生涯 ==
=== 出生から香坂氏継承 ===
『[[甲陽軍鑑]]』に拠れば、大永7年([[1527年]])、[[甲斐国]][[八代郡 (甲斐国)|八代郡]]石和郷([[山梨県]][[笛吹市]][[石和町]])の[[百姓]][[春日大隅]]の子として生まれる。[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])に父大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。
 
はじめは[[使番]]として働き、{{要出典範囲|天文21年([[1552年]])には100騎持を預る[[足軽大将]]となり、春日弾正忠を名乗ったという|title=永禄2年までは弾正左衛門尉としていたのと矛盾しますので、出典をお願いします|date=2016年11月}}。なお、この間の『天文15年(1546年)推定武田晴信[[誓詞]]([[東京大学史料編纂所]]所蔵文書)』は、虎綱を指すとされる「春日源助」宛で晴信と虎綱の[[衆道]]関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている<ref>鴨川(2004)</ref>。
 
武田氏による[[埴科郡]]の[[村上義清]]攻略が本格化した天文22年([[1553年]])には信濃[[佐久郡]][[小諸城]](長野県[[小諸市]])の[[城代]]となる。同年4月に虎綱が名跡を継承することになる信濃更級郡牧野島の国人[[香坂氏]]が武田家に出仕している<ref>平山(1994・②)、p.52</ref>。
 
その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて[[越後国|越後]][[上杉氏]]に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の[[取次]]役を務めている<ref>平山(2008)、p.314</ref>。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年([[1561年]])8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次[[川中島の戦い]]が発生する<ref>平山(1994・②)、p.55</ref>。『甲陽軍鑑』によれば[[妻女山]]攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。
 
=== 勝頼期の活動から晩年 ===
元亀4年([[1573年]])4月の信玄死後の勝頼期にも海津城代として上杉氏に対する抑えを任されている。天正3年([[1575年]])5月21日の[[長篠の戦い]]には参戦せずに海津城を守備していたが、嫡男の[[高坂昌澄|昌澄]]が戦死している。『軍鑑』に拠れば勝頼期には一門の[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]や[[穴山信君]]、譜代家臣の[[跡部勝資]][[長坂光堅]]らが台頭していたといわれ、虎綱らの老臣は疎まれていたという。
 
長篠の戦いで武田氏は織田氏に大敗した。この戦いは武田家にとって有力家臣の多くを失い領国の動揺を招くこととなり甲陽軍鑑においても武田家の衰退を決定づけた合戦とされる。勝頼は長篠敗戦後に信濃へ逃れ、6月2日に甲府へ帰陣している。甲陽軍鑑には、虎綱は敗報を聞くと信濃駒場において勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話がある<ref>平山(2011)、p.156</ref>。虎綱の献策が事実であるかは検討を要することが指摘されるが、主に[[相模国]]の[[後北条氏]]との同盟を強化することと、戦死した[[内藤昌秀]]・[[山県昌景]]・[[馬場信春]]らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および長篠敗戦の責任を取らせるため、戦場を離脱したとされる親族衆の[[穴山信君]][[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]の[[切腹]]を申し立てたとしている<ref>平山(2011)、pp.156 - 158</ref>。
 
勝頼期には尾張の織田氏との対決が行われているが、虎綱は天正6年([[1578年]])の上杉謙信死後に発生した上杉家における[[御館の乱]]において、武田信豊とともに[[上杉景勝]]との取次を努め、[[甲越同盟]]の締結に携わっている。虎綱が甲越間の交渉に携わっている天正6年6月8日付の[[北条高広]]・[[北条景広|景広]]宛上杉景勝書状を最後に史料からは消え、6月12日付の武田信豊書状では信豊が単独で交渉に携わっており、同年10月からは虎綱の子息・[[高坂昌元|信達]]が登場することが確認される<ref>平山(1994・②)、p.64</ref>。同年6月14日に海津城において死去したとされる。享年52。
 
虎綱の[[命日]]は複数の説があり、『乾徳山恵林寺雑本』等では天正6年5月11日、『[[甲斐国志]]』人物部第五では墓所の明徳寺に伝わる5月初7日死去としているが、甲越間の交渉時期からこの説は整合性が取れない<ref>平山(1994・②)、pp. 64 - 65</ref>。高野山成慶院「武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としており、この説が最も整合性の取れることが指摘される<ref>平山(1994・②)、p.65</ref>。『武田御日坏帳』によれば、同年7月25日には高野山成慶院で甥の[[春日惣次郎|惣次郎]]による供養が営まれている。法名は弘治2年4月21日に「保雲椿公禅定門」と定められている。
 
== 虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』 ==
春日氏は次男信達が継承し海津城代も務めるが、[[天正]]10年([[1582年]])3月の武田氏滅亡後は[[森長可]]の支配を受ける。同年6月の[[本能寺の変]]後、信達は[[美濃国|美濃]]に撤退する長可を妨害し、[[越後国|越後]]の[[上杉景勝]]に属したが、[[7月13日]]、北信での自立を画策する武田遺臣の[[真田昌幸]]や[[北条氏直]]らと内通したことが発覚し、激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂氏嫡流は滅亡した。さらに[[慶長]]5年([[1600年]])3月、初代[[川中島藩]]主として北[[信濃国|信濃]]に入った森長可の弟[[森忠政]]によって信濃に残っていた信達の一族は残らず探し出され18年前に長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された(森家先代実録)。
 
近世には[[町年寄#甲府町年寄|甲府町年寄]]の山本金右衛門([[春日昌預]]、[[1751年]][[3月17日]]([[寛延]]4年) - [[1836年]]([[天保]]7年))は[[甲府城]]下の大店若松屋を営む加藤家の出自で、加藤家は虎綱の子孫を称している。
 
虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績を記している『[[甲陽軍鑑]]』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書で、『軍鑑』自身の奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の[[跡部勝資]]・[[長坂光堅]]らに対する「諫言の書」として記したという。
 
虎綱の死後も甥の[[春日惣次郎|惣次郎]]と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である[[小幡昌盛]]の子[[小幡景憲|景憲]]がこれを入手し、完成させたという<ref>『甲陽軍鑑』には文書上確認されない人物名や合戦、年紀の誤り等基本的事実の混同が頻出するため史料的価値や虎綱が原本を口述したとすることも疑問視する指摘もあるが、近年は国学的検討により再び性格をめぐり議論が行われている</ref>。
 
== 関連作品 ==
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