「ヴェリーキー・クニャージ」の版間の差分

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13世紀の半ばの[[モンゴルのルーシ侵攻]]を経てキエフ大公国は滅亡し、キエフ大公位は廃された。キプチャク平原に[[ジョチ・ウルス]]が成立すると、その支配の及んだルーシのヴェリーキー・クニャージは、他のクニャージと同じく、[[ヤルルィク]]に従ってジョチ・ウルスの[[ハーン]]のために貢税を徴収する立場におかれた。また、この時期の、ウラジーミル大公位をはじめとするいくつかの大公位は、その称号を得るのにジョチ・ウルスの承認が必要だった。この時期のヴェリーキー・クニャージには、ウラジーミル大公、リャザン大公、[[スモレンスク公|スモレンスク大公]]([[スモレンスク公国|スモレンスク大公国]])などがある。また、西方からリトアニアが拡張し、ルーシ西部から南部を支配下に置いた。このリトアニア・[[ゲディミナス朝]]の政権の長は[[リトアニア大公]]を名乗った([[リトアニア大公国]])。
 
14世紀のはじめから、ウラジーミル大公位に就いた者の多くは、自身の称号にフセヤ・ルーシ(全ルーシ[[:ru:Всея Руси|(ru)]])の称号も用いるようになった。14世紀半ばのルーシ北東部には、ウラジーミル大公、ニジニ・ノヴゴロド・スーズダリ大公(ニジニ・ノヴゴロド・スーズダリ大公国[[:ru:Нижегородско-Суздальское великое княжество|(ru)]])、トヴェリ大公([[トヴェリ大公国]])が、14世紀から15世紀にかけてはヤロスラヴリ大公([[ヤロスラヴリ公国[[:ru:Ярославское княжество|(ru)ヤロスラヴリ大公国]])や、リャザン大公国から分離した[[プロンスク公|プロンスク大公]]([[プロンスク公国|プロンスク大公国]])が存在した。また、ウラジーミル大公位は、[[モスクワ大公]]([[モスクワ大公国]])が名目上有する称号となった。
 
最終的には、16世紀のはじめまでに[[ルーシの諸公国]]はモスクワ大公国とリトアニア大公国によって統合され、ヴェリーキー・クニャージの称号は、モスクワ大公とリトアニア大公のみが有する称号となった。