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[[東京都立三田高等学校]]を経て、[[慶應義塾大学]][[法学部]]に入学。[[慶應義塾體育會蹴球部|同大学ラグビー部]]の出身で、卒業後はライオン歯磨(現:[[ライオン (企業)|ライオン]])に入社の傍ら、エーコンクラブ<ref>[http://1311007.team.jrfu-members.com/ エーコンクラブ]</ref>でラグビーを継続し、[[1967年]]のニュージーランド学生代表(NZU)来日試合が[[ラグビー日本代表]](以下、日本代表)選手としての初[[キャップ]]となった。翌[[1968年]]の日本代表[[ニュージーランド]](以下、NZ)遠征メンバーにも選出され、同年6月3日に行われ、23-19で撃破したオールブラックスジュニア戦のフィフティーンとして名を連ねた。しかしNZ遠征試合を契機に、日本代表、そしてラグビー選手として第一線級の舞台から退いた。
[[1974年]] [[イギリス|英国]]クランフィールド大学ビジネススクール卒業修了(MBA)。
その後、[[エーシーニールセン|ニールセン・ジャパン]]代表取締役社長を務め、日本で初めてテレビの機械式個人視聴率調査の導入を行った。ニューズコーポレーションを経て、現在に至る。また、[[日本ラグビーフットボール協会]]理事、[[国際ラグビー評議会]](IRB)理事等、ラグビー界の要職を務め、[[日本放送協会|NHK]]等、ラグビー中継の解説者としても活動した。