「郡司成忠」の版間の差分

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[[7月31日]]、泰洋丸は捨子古丹島に到着する。しかし、ここで馬場は、占守島への回航を拒否し、帰還途中に[[新知島]]に寄るのはどうかという代案を出してきた。ここで馬場が当初の約束を反故にした理由についてははっきりしていないが、採掘に手一杯で泰洋丸を占守島へ回航させる人員が確保できないことや、千島が荒天気に入る時期であったため、占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きるなどして硫黄を持ち帰れなくなることを恐れたのではないかと推測されている<ref>綱淵謙錠『極 白瀬中尉南極探検記』、新潮社、1990年、188頁</ref>。便乗者である郡司としてはこれに抗議することもできず、また新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破して同湾を天然の良港に改造しようという計画を建てていたこともあり、その提案を呑んだ。
 
また、泰洋丸のメンバーが硫黄採掘をしている最中に郡司は白瀬を連れて島内一周探検を実行しており、かつて[[千島アイヌ]]の人間が建てた家屋や橋梁が残っていることや、飲料水が豊富なことを発見した。このため、郡司は[[脚気]]にさえ気をつければ捨子古丹島での越年は可能だと判断し、先遣隊18人のうち高橋伝五郎など9人を残留させることにした。まずは占守島を全力で開拓することを目的にしていた郡司にとってこれは苦渋の選択であった(郡司はその著書『千島国占守島探険誌』の中でこの選択について「実ニ忍ビザル所アリ」と記している<ref>『極 白瀬中尉南極探検記』、189頁</ref>)が、占守島に渡るめどが立たない状態では次善の策としてこれを取らざるを得なかったのである。
 
捨子古丹島残留メンバーと別れた郡司・白瀬・横川ら残りの9人は泰洋丸に乗って新知島へ向かっていたが、その途中に偶然、八戸から函館まで郡司らを運んだ軍艦磐城と再会する。磐城は測量のため占守島へ向かうところであり、郡司は便乗させてもらうことを請願したところ、これを許可された。ただし、捨子古丹島に残留した9人については、任務の関係上捨子古丹島への寄港が無理であり、回収はできないとのことであった。