「武者小路千家」の版間の差分

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==歴史==
4代一翁宗守は、最初は兄である宗拙同様に家を出て、武者小路あたりの吉文字屋という塗師の家へ養子として入り吉岡甚右衛門と称していた。しかし宗旦の最晩年には江岑宗左とともに行動しており、自身の還暦を前に千家の茶の世界に戻り、兄弟の勧めもあって官休庵をひらいたようである。一翁は宗旦没後の寛文6年(1666年)に[[讃岐国]][[高松藩]]の[[松平頼重]]の元へ茶堂として出仕しているが、翌年には老齢を理由に退き5代文叔宗守に<!-- まだ7歳だけど… -->その地位を譲っている。以来武者小路千家の家元は高松藩の茶道指南役に就いた。
流祖・一翁宗守が[[讃岐国]][[高松藩]]・松平家の茶道指南を勤めたことから、武者小路千家の家元は代々、高松藩の茶道指南役に就いた。
 
7代直斎は武家出身の養子であるが、同時代の表千家7代如心斎や裏千家8代一燈宗室らとともに、家元制度を整備し多くの門人を受け入れ、中興と称される。しかし天明の大火や幕末兵火などによりたびたび焼失を繰り返し、そのたび再建を繰り返している。
 
明治になって11代一指斎が没した後、幼くして養子であった12代愈好斎は表千家に引き取られ、武者小路千家は一時中絶していた。しかし愈好斎は[[東京帝国大学]]で国史学を修め、卒業後に武者小路千家を再興した。愈好斎は西洋音楽を愛し、五線譜を意匠に用いた「君が代棗」を好んでいる。13代有隣斎は[[京都帝国大学]]の学者出身で、愈好斎とおなじく学究肌の家元であった。
 
==許状==