「仙石政房」の版間の差分

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[[延宝]]6年([[1678年]])に父が死去したため、政房が[[家督]]を継いで家老として藩主の[[仙石政明]]に仕えた。政房のこの頃の名は政時であり、仙石家家老・仙石靭負の名で知られていた。[[宝永]]3年([[1706年]])の仙石家の[[信濃国|信濃]][[上田藩]]から但馬出石[[藩]]への移封に際しては、[[出石城]]受け取りなど移封の全責任者を務めている。
 
政明の実子は全て早世していた。このため分家の政房と[[仙石久貞|久貞]](久治の孫で政房の従兄弟)が後継者を巡って争った末、宝永5年([[1708年]])7月21日に政房が政明の養子となった。この際、政時から政房に名を改めている。享保2年([[1717年]])に政明が死去すると、家督を継いだ。政房は自らの権力を強化するため、対立していた久貞を享保14年([[1729年]])に知行削減の上で[[隠居]]させ、実弟の政友を家老(自身の出身である家老家の後継)に任命することで自身の派閥による本家独占化を図っている。100年ほどのちに出石藩で勃発する御家騒動「[[仙石騒動]]」はこの久貞の子孫派(仙石造酒)と政友の子孫派(筆頭家老・[[仙石久寿|仙石左京]])との争いが主軸となる。
 
藩の財政難などから上米を行なっている。享保7年([[1722年]])11月28日に[[奏者番]]に任じられ、享保19年([[1734年]])6月5日に[[寺社奉行]]に任じられるなど、幕閣として幕政にも参与した。後には[[老中]]にまで栄進するという話もあったが、享保20年(1735年)3月に病に倒れ、4月24日に死去した。享年63。跡を[[婿養子]]の[[仙石政辰|政辰]]が継いだ。
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