「庄内砂丘」の版間の差分

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===砂防の始まりから江戸時代中期===
1000年以上前から飛砂防止のための施策が行われていたといわれている。[[中世]]ころまでこの砂丘は[[広葉樹]]が生い茂る[[森林]]で覆われていたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての兵火や、[[製塩]]の[[薪材]]などとして無計画な乱伐が繰り返され、伐り尽くされてしまったといわれている。当時、[[庄内藩]]が沿岸集落に[[塩]]を現物税として課したため、庄内の沿岸各集落では製塩が盛んに行われていた。当時の製塩法は、[[海水]]を煮詰めるために大量の薪を必要とし、[[流木]]の他に、砂丘にあった自然植生の樹木が伐採され使用された。やがて樹木は枯渇し、上流から製塩用の薪が水運で運ばれるようになり、この薪は「塩木」と呼ばれた。江戸時代中期ころその荒廃は極に達し、植生を失った砂丘は砂を吹き上げ、飛砂によって[[田畑]]や溝堰は埋まり、[[河口]]の埋没による連年の[[洪水]]で人々の生活は困窮し、[[家屋]]の移転を余儀なくされて[[廃村]]となるものもあったと言い伝えられている。
 
===江戸時代中期から後期===