「ノモンハン事件」の版間の差分

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第6軍はソ連軍の猛攻撃の中で、反転攻勢に出るべく準備を進めていた。小松原は増援の第7師団森田旅団ができるだけ敵主力を引き付けている間に、第23師団主力が短距離でソ連軍の側面に回り込むという作戦を主張したが、安全策をとって東南東に大きく迂回してハルハ河まで追撃するとした第6軍案と真っ向から対立し8月21日を丸1日浪費してしまった。22日には砲兵団の畑少将も加わって激論を交わしたが、結局上部組織である第6軍の案が採用され、23日に各部隊に伝達された{{Sfn|越智|p=256}}。
 
作戦計画によれば小林少将率いる歩兵第71、72の諸連隊をあわせて右翼(北)を進み、森田少将率いる歩兵第26、28連隊が左翼(北)を進撃し、ソ連軍主力で南方から日本軍を包囲しようとしていた南方軍を逆に包囲する作戦を立てた。攻撃開始は翌24日と決められた。攻撃計画が決定した23日午後に関東軍司令部から派遣された辻が、道中ソ連軍戦闘機や砲撃により命からがら前線司令部にたどり着いたが、司令官の荻洲はウィスキーを飲んでいたところで、辻に「君一杯どうかね、明日の前祝に」と語りかけるなど余裕しゃくしゃくであった<ref>辻政信『ノモンハン』P.187{{Full citation neededSfn|辻|2016|datep=2020年8月226}}</ref>。翌24日になって、攻撃参加予定部隊はすでにソ連軍の猛攻で防戦一方で、攻撃開始前に間に合った部隊は歩兵第72連隊と第28連隊の合計5個大隊であり、予定の9個大隊の半分に過ぎず、支援の砲兵の展開も間に合わないことが判明した。また攻撃開始直前には、フイ高地が全滅(実際は撤退)したことが知らされ、辻は「何たる幸先の悪さ」と考えたが<ref>辻政信『ノモンハン』P.108{{Full citation neededSfn|辻|2016|datep=2020年8月229}}</ref>、悪いのは幸先ではなく、第6軍や第23師団が初めから戦況や敵状を無視して立てた無理な作戦計画そのものであった{{Sfn|越智|p=260}}。
 
前線の指揮官や下士官のなかにはこの攻撃が無茶ということは十分に認識した者も多く、第72連隊の平塚少尉が小倉第2大隊長へ「このままやったら全滅ですよ」と話しかけると、小倉は「おれもそう思う」と返事をしている{{Sfn|昭和史の天皇29|1976|p=127}}。攻撃は9時に開始となったが、戦車を含む重武装の第57狙撃師団第80連隊が守る780高地(ヤレ高地)に向かって白昼堂々と4-5&nbsp;kmも突進するという近代戦では考えられない作戦で{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版2380}}、突撃を開始すると、ソ連軍の圧倒的な火力で日本兵はバタバタと倒された。それでも小林の右翼攻撃隊がソ連軍陣地に突入したのを、第23師団司令部は確認している。第23師団司令部も攻撃隊に続いて前進しようとしたが、ソ連軍戦闘機数十機が来襲し、その機銃掃射によりたちまち前進は停止させられて、戦闘機が去ると次は戦車10輌が司令部目指して突進してきた。師団長の小松原以下全員が覚悟を決めたとき、野砲1中隊が司令部を援護してソ連軍戦車を直接照準で砲撃して、たちまち4輌を撃破して撃退し小松原らは九死に一生を得た{{Sfn|辻|2016|p=232}}。
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参謀本部の意図は中島が持参した『大陸命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す」とノモンハン事件の早期収束であった{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版2821}}。この頃にノモンハンでの戦いを仕切っていた関東軍参謀の辻は、今までの経験により「戦法も改めねばならぬ、戦車と重砲と飛行機において我に数倍する敵に、従来のような原則的戦法では到底勝つ見込みはない」と考え、その新しい戦術として、前代未聞の3個師団もの大兵力による集中的な夜襲攻撃を考案していた{{Sfn|越智|p=302}}。ただしこの作戦は苦肉の策とも言えるもので、発案者の辻ですら「名案ではなく、これ以外に勝ち目はない」としていた。
 
参謀本部から関東軍を説得に来たはずの中島であったが、8月30日新京で行われた関東軍司令部と中島らの作戦会議で、関東軍司令官の植田、作戦課長の寺田から辻考案の3個師団夜襲作戦を説明されると、関東軍との融和を第一に考えていた中島は関東軍の作戦案に同意してしまう。その夜は祝宴が開かれたが、中島らと関東軍司令部は大いに打ち解け、辻も「これなら今度の攻勢は必ず成功するぞ。必勝を信ずる空気に満ちた」と当時の思いを回想している<ref>[[辻政信]]『ノモンハン』P.223{{Full citation neededSfn|辻|2016|datep=2020年8月256}}</ref>。中島が丸め込まれたことを知った参謀本部作戦課長の稲田はすぐに次の手を打ち、「情勢に鑑み大本営は自今「ノモンハン」方面国境事件の自主的終結を企画す」「関東軍司令官は「ノモンハン」方面に於ける攻勢作戦を中止すべし」とより具体的で断定的となる『大陸命349号』を出した。前回丸め込まれた中島が、この命令を持参して9月4日に再度関東軍司令部を訪れ、命令と「大陸命に基き隠忍自重、他日の雪辱を期しよく上下を抑制して、時局の収拾に善処せんことを切望す」との参謀総長の言葉を植田に渡している<ref>大本営陸軍部研究班「関東軍に関する機密作戦日誌抜粋ーノモンハン事件」(防衛研究所蔵)P.49</ref>。中島の説明に植田と関東軍参謀長の[[磯谷廉介]]は「前命令からわずか4日しか経っておらず、戦況には何の変化もないのに、この急変は、なぜか」と激怒し詰め寄ったが、前回に懲りた中島は「大命です」の一点張りで突き通した。そこで植田は「戦場に残された遺体の収容をするための出撃だけはぜひ許可して欲しい」と懇願したが、中島は「それさえも、お許しにならないのが大命の趣旨です」と突っぱねた{{Sfn|越智|p=305}}。関東軍は「戦場整理」の名目で攻勢発動をする目論見であったが、中島はそれを見抜き拒み続けた。最後に植田は辞任もちらつかせ迫ったが、中島は「上司に伝えます」とだけ答えると、今回は新京に長居することなく半日の滞在で東京に引き上げた{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版2880}}。
 
参謀本部のかたくなな態度に植田ら関東軍司令部もついに観念し、9月6日に植田の署名では最後となる関東軍命令『関作命第178号』が発せられ、ノモンハン方面での攻勢作戦は一切中止され、実質的にノモンハン事件は終わった{{Sfn|越智|p=305}}。しかし第6軍に関東軍から増援された各部隊は引き続き指定されたノモンハンの展開予定地に突き進んでおり、その第6軍に対して関東軍は「自重せらるると共に別命ある迄万一に応ずる作戦準備は依然継続」などと思わせぶりな指示を与えていたため<ref>大本営陸軍部研究班「関東軍に関する機密作戦日誌抜粋ーノモンハン事件」(防衛研究所蔵)P.147</ref>、この時点で、関東軍から多くの増援を得ていた第6軍司令荻洲は高揚していた。この時荻洲の指揮下には第23師団の残存の他に、第2、第4、第7師団と第1、第8師団の一部に重砲と全満州からかき集めた速射砲230門があり、総兵力は65,000名にもなっていた。ノモンハン戦に関する記述で、よく日本軍の参戦兵力として記述されるのが、この時点での兵力である{{Sfn|コロミーエツ|p=107}}。さらに9月3日には、参謀本部が第5、第14師団などの増援を決定したという報告も受けていたが、その増援を加えると10万以上の規模に達するため、荻洲の気持ちはさらに高まり「速に敵に鉄槌的一撃を加え、国境鼠賊掃滅の蠢動を一挙に封殺し、皇軍の慰武を宣揚し以って大元帥(天皇)陛下の信綺に応え」と部隊に檄を飛ばしている。そんな司令官の高揚が全軍に伝播したのか、『関作命第178号』が第6軍の参謀に到着した際は、参謀長の藤本は一読するとポケットにねじ込み「当分のうちはこの電報は絶対に他に漏らしてはならぬ」と部下参謀に厳命している<ref>本郷健『ノモンハン』第6号「ノモンハン回想記」1971年</ref>。