「ノモンハン事件」の版間の差分

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哈爾哈廟事件をきっかけに、満州国とモンゴルは独自の外交交渉を開始していた(実質的には日ソ交渉{{Sfn|戦史叢書27|1969|p=313}})。1935年2月に満州国軍の[[興安軍|興安北警備軍]]司令官[[ウルジン・ガルマーエフ]](烏爾金)将軍がモンゴル側に会合を提案、1935年6月3日から1937年9月9日まで[[満州里市|満州里]]で5回の[[満州里会議]]が開かれた{{Sfn|鎌倉|2001|pp=267-268}}。満州は全権代表の首都常駐相互受け入れ・タムスク<ref group="注">現地語発音に近い表記は「タムサクプラグ」({{lang-en|Tamsagbulag}}{{lang-mn|Тамцак-Булак}}{{lang-mn|Тамсаг-булаг}})。[[ドルノド県]]{{仮リンク|ハルハゴル郡|en|Khalkhgol}}に属し、後述のように本事件でのソ連軍の主要陣地となった。</ref>以東からの撤兵を要求したが、モンゴル側は難色を示し、タウラン事件後に起きた凌陞の内通容疑での処刑などで難航した。紛争処理委員の現地相互駐在は妥結しかけたものの、ソ連の指示により1937年8月末から始まった[[粛清]]でモンゴル側関係者の大半が内通容疑で処刑され、打ち切りとなった{{Sfn|鎌倉|2001|p=269}}。
 
ソ連側には単純な国境紛争で無い政略的意図があったとも言われる。張鼓峰事件では、直前の[[ゲンリフ・リュシコフ]]亡命事件があったため、ソ連側としては威信を示す必要があった。ノモンハン事件に関しては、日本に局地戦で一撃を加えて対ソ連積極策を抑える狙いを有していたとの見方がある{{Sfn|戦史叢書27|1969|p=423}}。ソ連は、の[[スパイ]][[リヒャルト・ゾルゲ]]から、日本陸軍の[[板垣征四郎]]陸軍大臣ら急進派、中国の戦線を縮小して対ソ戦の基地を確保するため、中国東部とモンゴルを保持することを望んでいるなどの日本側の対ソ連の方針に関する情報をモスクワに送っている。おり、ゾルゲの報告などの情報を検討したソ連首脳部は、モンゴル東部国境での日本軍との軍事衝突は不可避であるという結論に達し、1939年3月には[[ヨシフ・スターリン]]が党大会で「我々はソ連と国境を接するすべての隣国と平和的かつ親密の友好関係を維持することを支持する。」「我々は、侵略行為の犠牲となって自国の独立擁護のために戦っている諸国を支持することを約する。我々は侵略者の脅威を恐れず、かつ、ソビエト国境の不可侵性を穀指しようと試みる戦争煽動者の攻撃に対して二倍の打撃をもって、これにむくいる用意がある」という日本を強く牽制する演説を行い、断固とした対応をすることを示唆したが、日本はこのソ連の強硬な姿勢を正確に認識することはなかった{{Sfn|アリウンサイハン|2006|pp=141-144}}。
 
====第23師団の紛争地進出====