「道祖王」の版間の差分

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'''道祖王'''(ふなどおう、? - [[天平勝宝]]9[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]([[757年]][[7月24日]]))は、[[奈良時代]]の[[皇族]]。[[天武天皇]]の孫で、[[一品親王|一品]]・[[新田部親王]]の子。[[孝謙天皇]]の[[皇太子]](のち[[廃太子]])。
 
== 経歴 ==
[[天平]]9年([[737年]])[[藤原四兄弟]]の相次ぐ死去に伴って、9月に[[朝廷]]の新体制構築に向けた[[叙位]][[任官]]が行われた際、[[無位]]から[[従四位|従四位下]]に[[蔭位|直叙]]され、翌天平10年([[738年]])[[散位寮|散位頭]]に任じられる。天平12年([[740年]])従四位上に昇叙され、のち[[中務省|中務卿]]を務めた。
 
[[天平勝宝]]8([[756年]])5月に[[聖武天皇|聖武上皇]]は死に臨んで、道祖王を[[孝謙天皇]]の[[皇太子]]に立てることを[[遺詔]]した。しかし翌天平勝宝9([[757年]])3月になって孝謙天皇は群臣を招集し、聖武上皇の[[服喪]]中にもかかわらず淫らで勝手気ままな気持ちがあり、教え戒める[[勅]]にも悔い改めることがなかったことを理由として、道祖王の皇太子を廃することの是非を問うた。これに対して[[右大臣]]・[[藤原豊成]]を始めとする群臣は一致して反対しないことを奏したため、道祖王は[[立太子]]後1年も経たないうちに皇太子を廃されてしまった。
 
同年4月には新しい皇太子に大炊王(のちの[[淳仁天皇]])が立てられたが、この際に孝謙天皇は勅して以下の理由を挙げて、道祖王の廃太子を正当化している<ref>『続日本紀』天平勝宝9歳3月29日条</ref>。