「上杉景勝」の版間の差分

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* キリスト教に寛容であり、幕府が禁教令を出し、領内での取り締まりを命じられても「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答えて、領内のキリシタンを護ったと『日本切支丹宗門史』に記載されている(記事の原文は、[[1629年]]7月、会津若松の[[宣教師]]から[[イエズス会]]総長に送られた報告書である)。当時のイエズス会宣教師ペドロ=モレホンは景勝を評して「異教徒中の異教徒(大いなる異教徒)」と述べており、景勝自身がキリシタンに好意を有していた訳ではないといわれているが、長年苦楽を共にしてきた有能な家臣たちを失いたくなかったためと伝えられている。実際、元和6年([[1620年]])の[[仙台藩]]を皮切りに東北諸藩がキリシタンへの弾圧を開始するなか、米沢藩では景勝が元和9年(1623年)3月に没するまでの間、幕府の禁教令を受ける形でキリシタン禁制の高札を領内に立てこそしたが、実際にキリシタンへの取り締まりや弾圧を行った記録などは残されていない{{Efn|景勝時代には常駐宣教師不在の中、[[甘糟信綱]](甘糟景継の子とも、一族ともいわれている)親子や西堀式部(「寛永八年分限帳」に名前のみえる、御年寄衆西堀七左衛門政直の一族か)らが入信し、地道な布教活動が行われていたようだが、著しくキリシタンが増えるのは、景勝死後、[[聖アウグスチノ修道会|アウグスチノ会]]の宣教師が置賜に常駐した[[寛永]]3年([[1626年]])以後のことと言われている。当時の[[フランシスコ会]]宣教師ディエゴ=デ=サンフランシスコの書簡には、当時米沢藩領内にいたキリシタンは一万人だが、半数の5,000人は寛永3年からの5年間の内に受洗したと書かれている。これは、特に寛永元年([[1624年]])の仙台・秋田・南部諸藩の大迫害後、キリシタン禁制がゆるやかであった米沢藩内に活発な伝道が行われたことが窺われ、こうした信者の著しい増加が、藩庁や幕府の注目するところとなり、ひいては寛永5年12月(1629年1月)の米沢大殉教につながったとの見方もある<ref>レオン=パジェス『日本切支丹宗門史』、菅野義之助『奥羽切支丹史』、浦川和三郎『東北キリシタン史』、『米沢市史・近世編1』</ref>。}}。
* 『[[名将言行録]]』によると会津征伐のとき、徳川家康への追撃を主張する兼続に対して、景勝は「太閤が他界する前、御前で生涯逆心しない旨の起請文を書き、その誓紙を太閤の棺に納めることは天下ことごとく知っている。この度のことは家康から仕掛けてきたので合戦の備えをしたが、家康が江戸に引き返した以上、こちらも会津へ引き返すのが道理と言うものだ。いま家康を追撃すれば先々申してきたことは全て偽りになり、天下最大の悪人として信用を失う」と述べたという。{{信頼性要検証|date=2011年7月}}
* [[大坂の陣]]において鴫野の戦いで勝利した景勝は最前線に陣を構えた。家康の軍使に[[堀尾忠晴]]と交代するように指示されたが、景勝は「自分が奪った陣地を他人に譲ることなどできない」と拒否した。[[丹羽長重]]が説得のため訪れたが、景勝は鎧を着けず謙信と同じく采配代わりに使っていた青竹を杖にして床机に座ったまま動くことはなかった。長重は感嘆し景勝を賞賛したという。(『[[常山紀談]]』)
* 景勝が弾正少弼を謙信から譲り受けた際の2通の書状が、景勝自身の筆跡と同じであるとし、景勝が自己を正当化する為、偽作したとの説<ref>「新潟県史」「上越市史 通史編2 中世」</ref>がある。しかし、上杉景虎が芦名止々斎に送った書状には「少弼無曲擬故」<ref>上越市史、1523</ref>と語っている。これは敵方となった景虎や、他国の諸大名にも弾正少弼が景勝を指すことが認知されていた証拠である。したがって、景勝が弾正少弼の官を譲られた事実は間違えないであろう。<ref>今福匡「上杉景虎」及び 米沢市上杉館発行 図録 開館十五周年記念特別展 米沢中納言上杉景勝(2016)</ref>