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== 生涯 ==
先祖の[[本貫]][[吉安府]][[廬陵県]]。[[成都市|成都府]][[新都区|新都県]]に生まれる。父の[[楊廷和]]は少師大学士であった。4歳の時に母から唐代の絶句を教えられ、すぐに暗誦したという。12歳の時に祖母の訃報を受けた父に従って蜀に行き、そこで父から『[[易経]]』を教えられ、「古戦場文」という一文を作っている。文中「青楼は紅粉の魂を断ち、白日は翠苔の骨を照らす」という名句があり、人々に愛唱されたという。[[弘治 (明)|弘治]]14年([[1501年]])に[[渭城]]を通り過ぎた際、「送別の詩」と「霜葉詩」を作り、さらに「万葉詩」が後に吏部尚書となる詩人の[[李東陽]]に認められ、その門人となった。[[正徳 (明)|正徳]]2年([[1507年]])に四川の郷試を受験し抜群の成績で選抜され、祭酒・[[玉類]]が楊慎を試験した後に「いずれ天下の士となるだろう」と評した。この正徳6年([[1511年]])の会試に第2位、殿試では24歳で第1位(状元)となり、翰林修撰を授けられる。正徳9年([[1514年]])に経筵展書官となり「[[文献通考]]」を校訂する。楊慎は時の皇帝であった武宗[[正徳帝]]が宣府鎮・大同鎮・楡林鎮などを軍人訓練と称して巡回し遊蕩にふけっていたことを憂い、たびたび切諫したが聴かれなかった。世宗[[嘉靖帝]]が即位し経筵(皇帝に対し講義をする役職)を開いたときにその講官となり「尚書」を進講した。[[嘉靖]]2年([[1523年]])に「武宗実録」を編纂。嘉靖3年([[1524年]])に父の楊廷和が[[大礼の議]]問題のために内閣大学士を辞任し、さらに[[桂萼]]・[[張璁]]らが起用されたことに反対し、皇帝に再三具申したために平民に落とされて雲州永昌衛に流刑となり、嘉靖38年([[1559年]])6月に没する。享年72。著述は百余種におよび、ほとんど3000巻に近いという。
 
== 著作 ==
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== 参考文献 ==
* 『[[明史]]』巻192
 
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