「岡田更生館事件」の版間の差分
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後日調査によると、収容者の保護費として県から給付される公金のうち90万円をN館長が横領した結果、元から不足していた給食費がさらに減っていたことが判明している<ref name=sanyo5>{{Cite news|url=https://www.sanyonews.jp/article/967294|title=70人以上死亡 過酷な実態改めて 岡田更生館事件の裁判記録開示|newspaper=[[山陽新聞]]デジタル|publisher=山陽新聞社|date=2019-12-13|accessdate=2020-01-10}}</ref>。この給付金の元となる収容者数を増やすべく、施設職員は路上の浮浪者を見つけては入所を促していた。中には、施設では食事も十分に提供されるほか、縄やむしろ作りで日給300円程度の仕事も得られるとの入所前説明を受けた収容者もいた{{Sfnp|大森実|1968|pp=74, 104}}。こうした施設職員の中には、[[主事|県主事]]の肩書の名刺を渡しながら入所勧誘する者もあったという{{Sfnp|大森実|1968|p=74}}。
こうして増えていく収容者たちは過密な部屋にあてがわれ、約半数が[[結核]]に、そしてほぼ全員が重度の[[疥癬]]に罹患していた{{R|sanyo1}}。[[保健室|医務室]]には、医師を自称する老女が1名いるのみであり、収容者の体にできた疥癬の傷口に塩を塗布するだけの対応であったという{{Sfnp|大森実|1968|p=109}}。栄養失調などを理由に免疫力が極端に低下した収容者の中には、その掻き傷が元で死に至る者もいた{{
収容者には序列がつけられ、「作業場」と呼ばれる3か所のいずれかに収容された。浮浪者はまず第一、第二の作業場に収容される。指導員に見込まれた者のみが"優等生"として第三作業場に昇格できる仕組みとなっており{{Sfnp|大森実|1968|p=105
指揮命令系統は軍隊式で運営されていた。各作業場に部長と副部長が1人ずつ、その下に数名の班長がボス的な全権を握っていた。他に、指導員と言われる部長級が30名いた。彼らの監視の目は厳しく、収容者はトイレに行くにも事前に断りを入れなければ怒鳴られた{{Sfnp|大森実|1968|loc=見開きページの毎日新聞49年2月19日記事写真}}。収容者に提供された食事内容の一例を挙げると、悪臭を放つ泥のような雑炊で、溶けかけた米粒が7、8粒と大根の切れ端が1つ入っているだけであった{{Sfnp|大森実|1968|p=107}}。一方、指導員らは、収容された浮浪者{{Sfnp|大森実|1968|p=106}}のうちN館長の眼鏡にかなった
こうした状況から逃れようとする収容者もいたことから、脱走防止を目的として全裸で就寝するよう命じられた{{R|sanyo1}}。与えられた寝具も麻袋(通称: [[ドンゴロス]])が1枚のみであった{{R|sanyo1}}。実際に脱走を試みても、職員に捕らえられると見せしめとして暴行が加えられた{{R|sanyo1}}。例えばバットで殴り殺される者、肋骨を折られて死亡した者
死者はその遺体が戸板に載せられ、夜明け前に薪と共に運び出され、裏山で焼かれた{{Sfnp|大森実|1968|pp=89-90}}。後に、施設で死亡しても骨箱に納められることもなく、焼却炉の広場にそのまま遺骨を埋められた犠牲者が大勢いたことも判明した<ref name=sanyo4>{{Cite news|url=https://www.sanyonews.jp/article/935646?rct=mabi_koseikan|title=収容された戦災者 真備・更生館事件70年(4)悲劇を伝える 住民有志 碑建て弔う 高齢化 継承望む|newspaper=[[山陽新聞]]デジタル|publisher=山陽新聞社|date=2019-09-05|accessdate=2019-09-27}}</ref>。本来医師が書くべき[[死亡届]]も、医師を自称する老女が書いていた{{Sfnp|大森実|1968|p=87}}。
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=== 事前調査 ===
リークした元入所者は、放浪詩人・北川冬一郎{{Efn2|年齢は当時20代、同人雑誌に詩を寄稿したこともあるという{{Sfnp|大森実|1968|p=77}}。なお『挑戦』では氏名が記されておらず、事件当時の新聞記事には富士田健一と書かれている{{Sfnp|小野|加藤|中山|2016|p=111}}。北川冬一郎の名は『エンピツ一本』(上巻)のp.203に依る。}}と名乗る男である。北川の証言によると、入所直後には頭を丸坊主にされ{{Sfnp|大森実|1968|loc=見開きページの当時の新聞記事}}、仕事もなく、土蔵のような作業場の2階に入れられたという{{Sfnp|大森実|1968|p=75}}。そして脱走するまでの1か月の間で、少なくとも50人から60人は死んでいったとも供述している{{Sfnp|大森実|1968|p=75}}。北川は
[[File:真備岡田地区公園.jpg|thumb|right|事件当時、村役場があった真備岡田地区公園<ref>[https://goo.gl/maps/nvVejr8wcnNwNxcR6 Google Map]</ref>(2019年10月6日撮影)]]
[[File:真備岡田地区公園の石碑.jpg|thumb|right|村役場跡である事を示す石碑(2019年10月6日撮影)]]
この証言を毎日新聞の宿直記者がメモに書き起こし、これを基に毎日新聞社会部副部長の山本礼は、当時27歳だった記者の[[大森実]]とベテランのカメラマン・向井健治を岡山の現地に派遣し
実際に岡山県庁で取材を行っても、岡田更生館が模範施設であると高く評価する声しか集まらず{{Sfnp|大森実|1968|p=79}}、中には模範施設として報じた新聞の切り抜きをわざわざ取り出して見せてくれる[[主事|県主事]]もいたほどであった{{Sfnp|大森実|1968|p=80}}。しかしながら大森らは、福岡県大牟田署が過去に行った調査を報じた3行ばかりの新聞記事を目にしていた{{Sfnp|大森実|1968|p=80}}。また、復員兵に扮した向井はレインコートに小型のカメラや望遠レンズを隠し{{Sfnp|大森実|1968|pp=80-81}}、夜間に屋外から撮影を行った。そこには、痩せて肋骨の輪郭が見えるほどの収容者が全裸で写っていた{{Sfnp|大森実|1968|p=86}}。本格調査のため、大森の要請{{Sfnp|大森実|1968|p=87}}により現場取材のメンバーに加わった毎日新聞の記者・小西健吉
危険が高すぎるとして大阪本社の反対に遭いながらも、このような事前調査を経て大森と小西は潜入取材による実情把握に踏み切ることとなった{{Sfnp|大森実|1968|pp=90-91}}。2名が潜入取材後に無事脱出できるよう{{Sfnp|大森実|1992|p=206}}、[[岡山地検]]の川又検事正、および倉敷署署長の吉井{{Efn2|『エンピツ一本』(上巻)のp.207(1992年)では署長の名は山本になっている。}}から協力を仰ぐ準備を整えてのことである{{Sfnp|大森実|1968|p=93}}。当初は川又検事正も岡田更生館が模範施設だと認識していたが、向井が撮影した証拠写真を目にすると一変し、潜入取材を支援することとなった{{Sfnp|大森実|1968|pp=94-95}}。潜入が決行される前、川又検事正は[[国家地方警察岡山県本部]](国警)の隊長・大石に電話して岡田更生館の不正を問い質すも、大石は過去に行った2、3回の調査の結果を踏まえて不正を全面否定した。この回答を受け、川又検事正は大森らの潜入取材にゴーサインを出したのである{{Sfnp|大森実|1968|pp=94-95}}。毎日新聞社の社内でも、この潜入取材は極秘扱いとされた{{
=== 潜入取材 ===
1949年2月16日{{Sfnp|大森実|1968|pp=99-100}}、大森と小西は倉敷署の吉井署長から協力を得て、岡田更生館に入所することとなる。吉井が朝に散歩していたところ、両名を倉敷駅付近で発見したことにして密かに[[留置場]]に拘束したのである{{Sfnp|大森実|1968|p=102}}。大森は北朝鮮、小西は満州からの
入所2日目、大森は脱走者がど
電話を受けるとすぐさま待機班が乗用車とオートバイで現場に駆け付け{{Sfnp|大森実|1968|p=117}}、大森の案内の元でカメラマンの向井が現場の証拠写真を次々と撮影していった{{Sfnp|大森実|1968|pp=117-118}}。事務所では更生館の帳簿を押さえようとする小西らと、N館長以下が書類を奪い合ったという{{Sfnp|大森実|1968|p=119}}。
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最終的に川又検事正が記者団を招集し、自らの目撃体験に基づいて特別談話を発表したことから、大石国警隊長を先頭に国警が記者らも伴って捜査に入った{{Sfnp|大森実|1968|pp=123-125}}。これに反発した岡田更生館側は正面玄関に「親が子を叱って何故悪い?」「愛情のムチを見誤るな!」「大森・小西記者の大誤報!」といった内容のプラカードや張り紙を貼り出した{{Sfnp|大森実|1968|p=124}}。
また、本館2階の大広間には独自の会見場を設け、反論した{{Sfnp|大森実|1968|p=125}}。その会見場には、身なりが整えられた収容者が200名余り集められ、正座していた{{Sfnp|大森実|1968|pp=125-126}}。壇上に立ったN館長
事件発覚から1年後の[[1950年]]2月28日、[[岡山地方裁判所|岡山地裁]]で裁判が開かれ、N館長に[[横領罪|業務上横領]]と[[文書偽造の罪|私文書偽造]]で懲役1年執行猶予3年、岡山県会計課主事の男性が同罪で懲役1年執行猶予2年、岡田更生館指導員の男性が同罪で執行猶予3年、同僚が同罪で執行猶予2年の判決が下り、N館長と会計課主事の男性2名は控訴した<ref name=Judge-Mainichi>{{Cite news|title=元岡田更生館長に判決|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=1950-03-01|page=東京朝刊}}</ref>。
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