「ドイツ社会主義労働者党」の版間の差分

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1931年秋に設立された第二のドイツ社会主義労働者党(SAPD、SAP)は、ドイツ社会民主党から分離した左翼分派のグループである。[[1932年]]、共産党から分離した何人かがこのグループに加わったが、党の規模は小さいままだった。[[1933年]]から、グループのメンバーは非合法に[[ナチズム]]に反対して活動した。
 
後に[[ヴィリー・ブラント]]として知られることになるヘルベルト・エルンスト・カール・フラームは若い頃([[1931年]])、師[[ユリウス・レーバー]]の忠告に背いて、[[リューベック]]でこのグループに加わった。ブラントは自伝にこう書いている。「1931年の秋、ナチとドイツの国家主義者たち、[[突撃隊]](SA)、[[鉄兜団、前線兵士同盟|前線兵士同盟]]たちが[[ハルツブルク戦線]]を結成した……党指導者による懲戒的な措置の結果として、社会民主主義の左翼が分離したのはちょうどその時のことだった。少数の国会議員と(とりわけ[[ザクセン自由州 (1918年-1952年)|ザクセン州]]の)活動的な党のグループ、とくに大部分の若い社会主義者が、ドイツ社会主義労働者党の結成に参加を呼びかけた人々に続いた」。
 
[[1934年]]、SAPDの若者たちが[[:en:International Bureau of Revolutionary Youth Organizations|Internationales Büro Revolutionärer Jugendorganisationen]]の設立に参加した。[[オランダ]]で会議が開かれたが、オランダ警察によって散会させられ、数人のSAPD代議員はドイツ当局に引き渡された。この会議は後に[[リール (フランス)|リール]]で再招集された。ブラントは組織の書記官に選出され、[[スウェーデン]]で活動した。