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20歳頃から名が知られるようになり、[[陳羣]]に採り立てられその属官となった。当時、[[劉劭 (曹魏)|劉劭]]らの間で官吏選抜制度の議論が活発であったが、傅嘏もまた自分の意見を述べた。また、[[何晏]]・鄧颺・[[夏侯玄]]といった人物が一世を風靡していたが、傅嘏は彼らの人物を嫌って親しくしようとはせず、荀粲のような正直な人物と付き合った。同じ州の出身である[[李豊 (曹魏)|李豊]]とは、名声を等しくしていたが不仲であり、李豊が高官に昇ってもいずれ破滅するだろうと予想していた。
 
[[正始 (魏)|正始]]年間に尚書郎に任命され、黄門侍郎にもなった。当時政治の実権を握っていた[[曹爽]]は、何晏を[[吏部]]尚書とし人事を任せていた。傅嘏は曹爽の弟の[[曹羲]]に何晏を重用しないよう勧めたが、これが何晏の耳に入ったため、後に些細なことを理由に免職とされた。後に[[ケイ陽市|滎陽]][[県令]]に任命されたが、出仕しなかった。後に[[司馬懿]]の招聘を受けて従事中郎将となり、曹爽一派が失脚すると河南尹に任命されて、尚書に昇進した。河南尹の政治は、前任者の[[李勝]]の統治が放漫であったため乱れていたが、傅嘏は先任者である[[司馬芝]]や劉静らの政治手法から学び、統治を引き締めた。しかし、その功績が表に出ないように努めたため、人々に評されることはあまりなかったという。
 
前線の将軍達の間で[[呉 (三国)|呉]]征伐の機運が持ち上がると、傅嘏は意見を求められたが、呉征伐に消極的な意見を述べた。果たして、[[胡遵]]・[[諸葛誕]]が東興で呉の[[諸葛恪]]に敗れ、遠征は失敗に終わった(東関の役)。この勝利に奢り、今度は諸葛恪が北伐の軍を起こし、[[青州 (山東省)|青州]]・[[徐州]]に攻め寄せる気配を見せたとき、傅嘏はその動きは陽動であり、結局、諸葛恪が[[合肥市|合肥]]に攻め寄せるであろうと予想し、的中させている。