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[[File:Bourbounnais in France (1789).svg|right|thumb|250px|ブルボネの位置]]
[[ファイル:Blason comte fr Clermont (Bourbon).svg|right|thumb|200px|ブルボン家の旧紋章]]
'''ブルボネー'''('''{{Lang-fr-short|Bourbonnais'''}}, [[オック語]]:''Borbonés / Barbonés'')は、[[フランス]]中央部の歴史的地域。現在の[[アリエ県]]と一致し、[[シェール県]]の一部も含む。中心地は[[ムーラン (アリエ県)|ムーラン]]。'''ブルボネ'''の表記も見られる。
 
== 歴史 ==
最初に知られた領主は、10世紀のアデマール(またはエイマール)である。アデマールはブルボン城(現在の[[ブルボン=ラルシャンボー]])を獲得し、それにちなんで家名を[[ブルボン家]]とした。
 
第1期のブルボン家は1200年にアルシャンボー7世の死によって断絶した。アルシャンボーには一人娘のマオー(マティルダとも)・ド・ブルボンがおり、その夫ギ2世・ダンピエールはモンルコンをブルボン領主の所有とし、11世紀から12世紀の間にシェール川まで拡張した。
 
第2期のブルボン家は、マオーとギ2世の子アルシャンボー8世によって1218年に始まる。弟は[[フランドル伯|フランドル女伯]]マルグリット2世と結婚したギヨーム2世・ダンピエールである。アルシャンボー8世の子アルシャンボー9世は、1249年に[[十字軍]]に参加し、[[キプロス]]で死去した。男子継承者のなかったブルボネーは[[ブルゴーニュ家]]へ渡った。
 
1272年、ブルボネー領主ベアトリス・ド・ブルゴーニュ(アルシャンボー9世の娘アニェスと、ブルゴーニュ公[[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]の子ジャンを両親に持つ)は、フランス王子・[[ロベール (クレルモン伯)|クレルモン伯ロベール]]([[ルイ9世 (フランス王)|ルイ聖王ルイ9世]]の子)と結婚した。2人の間に生まれた[[ルイ1世 (ブルボン公)|ブルボン公ルイ1世]]が、長きにわたる、そして現在一般に[[ブルボン家]]として知られる家系の祖となった。[[ブルボン朝|フランスのブルボン朝]]は[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]によって始まり、1848年の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の退位まで続いた。
 
ブルボン家は王家の構成員との同盟関係を結んでいた。彼らは王の奉仕として自軍を派遣し、ブルボネーの地理的位置から恩恵を得ていた(ブルボネーは王領と[[アキテーヌ]]公領、[[オーヴェルニュ]]の間に位置していた)。ベアトリスとクレルモン伯の結婚同様この同盟関係は、地域の地位向上と繁栄を助けた。1327年、当時の王[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]によって、ブルボン家は公爵位を授けられた。