「松本飛行場」の版間の差分

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== 歴史 ==
陸軍による当飛行場の建設計画は[[1942年]]([[昭和]]17年)にまとめられ、[[1943年]](昭和18年)以降、建設工事が進められた。広さ200[[ヘクタール]]の土地にのべ10万人の[[労働者]]が投入され、その中には[[朝鮮民族|朝鮮人]]や[[学生]]なども含まれていた。現在の[[安曇野市]]出身の[[映画監督]]・[[熊井啓]]もまた学生時代に当飛行場の建設に動員されており、自著の中で当時の過酷さについて語っている。飛行場の運用開始は[[1945年]](昭和20年)の春のことで、その数か月後に[[終戦の日]]を迎えた。[[戦後]]、飛行場は閉鎖され、場内にあった[[飛行機]]は焼却、土地は地元に払い下げられた<ref name="shinmai">{{Cite web |url=http://www.shinmai.co.jp/news/20130726/KT130725SJI090002000.php |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130728103259/http://www.shinmai.co.jp/news/20130726/KT130725SJI090002000.php |title=再現「陸軍松本飛行場」松本市空港図書館、来月公開 |publisher=[[信濃毎日新聞|信濃毎日新聞社]] |date=2013-07-26 |archivedate=2013-07-28 |accessdate=2016-11-20 }}</ref><ref name="times">{{Cite web |url=http://www.shimintimes.co.jp/yomi/isan/isan73.html |author=白沢幸恵 |title=近代化遺産を歩く 73 旧陸軍松本飛行場跡 伝えたい戦争の記憶 |publisher=[[市民タイムス]] |accessdate=2016-11-20 }}</ref>。
 
また、空襲の激化の為[[三菱重工業]][[三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所|名古屋航空機製作所]](大江工場)が松本市に疎開することになり、1945年2月1日に[[三菱重工業]]第一製作所が開設された。当飛行場には試作工場があり、当時三菱が開発中だった戦闘機[[烈風]]の六号機、七号機が鈴鹿工場から当飛行場に移されて開発、試験を行うこととなったが程なく終戦となった。<ref>{{Cite book|title=丸10月別冊 日本陸海軍幻の軍用機大百科 逆転を賭けた夢の翼|date=2020.10.1|year=|publisher=潮書房光人新社}}</ref>
 
[[松本市立菅野小学校]]は旧飛行場の[[滑走路]]の東に位置し、旧飛行場施設の[[コンクリート]]製[[基礎]]が[[校庭]]の基礎として流用されている<ref name="matsumoto" />。