「上條勉」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> {{Wayback}} (www.geocities.jp) (Botによる編集)
80行目:
=== 松本疎開 ===
[[ファイル:戦時地下・半地下工場跡 里山地区の林城山と向山 2015年.JPG|thumb|alt=里山辺地区の林城山と向山を翠峰が2015年5月14日に撮影|right|200px|里山辺の林城山(左)と向山]]
1945年(昭和20年)にかけて、名古屋空襲が激しさを増し大江工場は使えなくなり、2月に技術部(設計・研究・試作部門)を分離独立させ三菱重工[[松本飛行場|第一製作所]](河野文彦所長)とし、松本市<ref group="注">当時松本は、陸軍[[歩兵第50連隊]]の駐屯地や多くの軍需工場が集まる軍都だった。</ref>を中心に分散疎開することになった。日本蚕糸株式会社(元・[[片倉工業|片倉製糸紡績]])松本工場・試験場、陸軍松本飛行場格納庫、[[長野県松本工業学校|松本工業学校]](現・[[長野県松本工業高等学校]])、松本第二中学校(現・[[長野県松本県ヶ丘高等学校]])、[[松本高等学校 (旧制)]]など多くの学校校舎を転用することとした<ref>『松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書』14-18頁</ref>。3月2日には米軍のB-29による里山辺空襲があり、爆弾4発が投下されている。4月から航空機工場は空襲の恐れがある松本市域から中山と里山辺に再疎開することになった。陸軍航空本部の指示で、ロケット戦闘機[[秋水]]の試作、零戦の後継機[[烈風]]等の部品製作のために、里山辺([[林城]]山、向山等)及び中山の地下・半地下軍事工場<ref group="注">地下工場は山の中をくり抜いて作られ、半地下工場は畑の中に作られた。</ref>の工事が4月1日から[[熊谷組]]の請負で、陸軍、三菱重工業、県内外の労働者、松本市周辺の住民の勤労奉仕、技術系の大学・専門学校の学生の[[学徒勤労動員]]、朝鮮人{{Refnest|group="注"|歴史教育者協議会等による里山辺における朝鮮人の強制連行・強制労働の実態調査報告書がある<ref>『松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書』57-59頁</ref>。}}、中国人(中国兵捕虜)<ref group="注">中山地区、500余人</ref>等、延べ約7000人(里山辺地区)を動員して行われた<ref>『松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書』18-48頁、「結語」215-217頁</ref>。
 
上條が課長を務めた第一製作所技術部第二研究課は日之出町の日本蚕糸株式会社の松本工場を使ったが、生産に役立つ仕事はほとんどすることができなかった。[[大町市]]木崎に家を借りて[[大糸線]]で松本に通った。烈風は堀越二郎技術部次長のもとで曽根嘉年第二設計課長を中心に若手エンジニアの手で設計され、終戦までに試作機7機、量産機1機が製作された。曽根は[[東条輝雄]]第一兼第二組立工場長とともに島内小宮の民家を借り、松本第二中学校に毎日自転車で通った<ref>松本市『広報まつもと』昭和60年8月15日号、6頁</ref>。8月15日に小学校の校庭で[[昭和天皇]]の[[終戦の詔勅]]([[玉音放送]])をラジオで聞いた。上條は終戦後引き続き松本に残り、9月に妻が虫垂炎から[[腹膜炎]]になり大町病院で手術を受け、長女を胃腸炎で亡くした。その後社員の住宅に割り当てられた、浅間温泉の温泉旅館の梅の湯、次いで滝の湯、仙気の湯に移った<ref>久保富夫「序」『大空への道』5頁</ref>。11月から日本蚕糸本館の臨時航空機工場整理事務所松本出張所で、人員の整理と研究課の試験器具の処分等の終戦処理に当たった。12月にはワシントン・ドキュメント・センター(WDC)<ref group="注">東京出張所が日本郵船ビルに置かれていた。</ref>から[[進駐軍]]の4人の将校が自動小銃やピストルで完全武装した護衛兵を伴って出張所に来所して、山辺のブドウ園の倉庫に分散保管していた三菱航空機の技術資料を調査し、[[ソビエト連邦|ソ連]]に関する参考資料を押収した。翌年も出張所では毎日残務処理や航空機の歴史編纂の仕事に追われた<ref>井上傳一郎「戦後の想い出」『往時茫茫 三菱重工名古屋五十年の回顧』3巻</ref>。