「浜野純」の版間の差分

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== 略歴・人物 ==
[[世田谷区松沢中学校]]卒業<ref name="nakayama">中山義雄「伝説かガセネタか 浜野純─You are so foolish man,my friend.」『ロック画報08』[[Pヴァイン|ブルース・インターアクションズ]]、2002年、86-87頁。</ref>。浜野によると「中学の頃に[[灰野敬二]]さんと遊びでやっていた[[セッション]]は、モロに[[キャプテン・ビーフハート|ビーフハート]]風だった」との事<ref name="nakayama"/>。
 
[[琴桃川凛]](和田哲郎)の解説によると、浜野は1975年秋頃に連続射殺魔に参加し、1976年12月に「大阪へ行くのは嫌だ、俺はいつまでも親のスネをかじって芸術ごっこがしたい」という理由でバンドを脱退したという<ref>[[琴桃川凛]](和田哲郎)はあまり浜野を良く思っていなかったようで「バカに解りやすい芸術家を演じたがる人間(気まぐれ、無口etc)を嫌悪するキッカケとなった奴」と評している。</ref>。
 
[[1977年]]頃、[[園田佐登志]]主宰の「[[園田佐登志|明治大学]]現代音楽ゼミナール]]」で[[山崎春美]][[大里俊晴]]と知り合い、[[バンド (音楽)|ロックバンド]]「'''[[ガセネタ (バンド)|ガセネタ]]'''」の[[ギタリスト]]として破天荒な演奏活動を行う。浜野の性急で凶暴な[[ギター]]演奏は「クスリ臭いギター」とも評され、同時代の[[アンダーグラウンド (文化)#文化としてのアンダーグラウンド|アンダーグラウンド]]な[[音楽家|ミュージシャン]]にも影響を与えた。また浜野はギターの弦では一番太いものを張っており、六弦には[[ベース (弦楽器)|ベース]]用の弦を張っていたという<ref name="oosato">[[大里俊晴]]著『ガセネタの荒野』より</ref>。
 
[[園田佐登志]]は浜野純について「初めて会った76年当時、彼は弱冠16才だった。誰にでも毒付く始末の悪い青年だったが、ギターの腕はピカイチで凄みがあった。[[吉祥寺マイナー|マイナー]]時代の浜野はすでに確かな技術を持ったある意味ではとても計算し尽くされたギターを弾く男だった。'''[[モズライト]]からくり出されるドライヴの効いた飛躍的なギターワークは鋭利な刃物のごとく研ぎ澄まされ、今でも聞く者を震撼させる、狂気を孕んだ早成のギタリストである'''」と評している。ちなみに[[ガセネタ (バンド)|ガセネタ]]の[[大里俊晴]]も浜野純の弾くギターを初めて聴いたときの衝撃について次のように回想している<ref name="oosato" />。
 
{{quote|フル・アップにしたアンプから、気違いじみたスピードで、引き裂くような音が迸った。血が凍りついた。それは爆発だった。瞬時にして、ありとあらゆる音が四方に飛び散る。音のカオス。だが、どんな混濁もなく。総ての音が、一粒一粒その存在を主張しながら走り過ぎた。空気を切り裂く、澄み切った音の刃。僕は膝が震えるのを止められなかった。ざわついた中庭は、音もなく静まり帰った。いや、僕にはそう見えた。彼は緩んだ日常に、そのギターで、突然寒々しい裂け目を入れて見せた。(中略)でも、その時すでに僕は、その裂け目に落ち込んでしまっていたのだ。僕は引き返せなくなってしまった。}}
 
なお[[大里俊晴]]による[[ガセネタ (バンド)|ガセネタ]]の[[回想録]]『ガセネタの荒野』によれば、浜野は大変早熟な天才美青年だったようで、わずか10代半ばにして「'''削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ'''」と語ったという<ref name="oosato" />。