「横浜市」の版間の差分
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横浜村は幕府が設置した運上所([[税関]])を境に、以南を[[外国人居留地]](横浜居留地)、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を[[関内]]、以外を関外と呼んだ。外国人居留地には、[[イギリス]]や[[フランス]]、[[ドイツ]]やアメリカを中心とした各国の外国商館が立ち並んだ。今に残る[[横浜中華街]]は、外国人居留地の中に形成された[[中国]]人商館を起源とする。一方、日本人居住地は'''横浜町'''と名付けて5区域に分割し、各区域に名主を置いて[[惣年寄|総年寄]]が町全体を統括、初代横浜[[惣年寄|総年寄]]には[[程ヶ谷宿|保土ヶ谷宿]][[本陣]]家第10代当主の[[苅部清兵衛|苅部清兵衛悦甫]]が就いた。明治6年、横浜町は第1区1番組に編入され、[[1874年]](明治7年)6月14日[[大区小区制]]により第1大区1小区となり、[[1878年]](明治11年)11月21日に[[郡区町村編制法]]に基づき、第1大区が'''横浜区'''となり、[[久良岐郡]]から分離して横浜区長が管轄することとされた。そして、[[1889年]](明治22年)4月1日、[[市制]]が施行されると同時に横浜区は[[市]]となり、'''横浜市'''が誕生した。当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4 km²。面積は狭いものの、市制施行当時、すでに戸数27,209戸、人口121,985人(1889年末時点)に達した。その後、関内地区は市政と商業の中心地として発展する。
開港当初の横浜港には、東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)が設置され、東西波止場はその形から「象の鼻」と呼ばれた。象の鼻は、現在の[[大さん橋]]の付け根部分にあたる。ここでの貿易は、[[生糸]]、[[茶]]、海産物が輸出され、絹織物、毛織物が輸入された。明治3年4月15日([[1870年]]5月15日)には、当時[[神奈川県知事]]であった[[井関盛艮]]の進言により、横浜及び横浜港の守り神として、[[野毛山]]に[[伊勢山皇大神宮]]が国費を以て創建され、この日は横浜市の祝日と定められた。明治5年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]([[1872年]]10月14日)には、新橋(後の[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]。現在は廃止)と横浜(現在の[[桜木町駅]])を繋ぐ[[日本の鉄道開業|日本初の官設鉄道が開通]]し、新橋・横浜それぞれの会場で盛大に開業式典が執り行われた。同年には、[[神奈川駅 (国鉄)|神奈川駅]](現在の[[横浜駅]]近傍)と[[鶴見駅]]も開設されている。当時、生糸貿易の主導権は外国商館にあった。そのため、横浜商人と呼ばれた日本人貿易商は、[[1873年]](明治6年)には生糸改会社を設立して競争力を高め、[[1881年]](明治14年)には[[生糸荷預所]]を設立して生糸貿易の主導権確立に努めた。また、横浜商人たちは、県営水道の設置(1887年(明治20年))、横浜共同電灯会社の設立(1890年(明治23年))、[[横浜市立大学|十全病院]]の設立(1891年(明治24年))、生糸検査所、商業会議所の設立(1895年(明治28年))など、都市基盤の整備と商業の発達に大きく寄与した。
[[1909年]](明治42年)には開港50周年を迎え、この年の7月1日{{efn|従来、開港記念日は旧暦に合わせて6月2日としてきたが、このとき新暦に合わせて7月2日とした。しかし、1928年([[昭和]]3年)には6月2日に再変更され、現在に至っている。}}から3日間にわたって、横浜開港50年祭と銘打った数々の記念行事が催され、「全市は殆ど家族打連れて外出せしやの観あり」と伝えられた<ref>1909年(明治42年)7月4日付、『横浜貿易新報』。</ref>。できたばかりの新港埠頭で行われた式典では、[[森鷗外]]の作詞による『[[横浜市歌]]』が、市内小学生の合唱によって初めて披露され、各国艦船は[[祝砲]]を放った。また、この時、市章の「浜菱」が制定され、市民の寄付による開港記念横浜会館(1917年([[大正]]6年)竣工。現・[[横浜市開港記念会館]]、ジャックの塔)の建設が計画されるなど、市制施行20周年と併せて盛大に祝われた。[[大正|大正時代]]に入ると、[[鶴見川]]河口の埋立が始まって[[京浜工業地帯]]が形成され始め、横浜港は工業港としての性格をも持ち始めることとなる。
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