「関東大震災」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
152行目:
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の[[火災]]が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については、[[工藤美代子]]が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、[[火薬]]類は保管していない)など発火原因が不明なところがあり、2日の午後に新しい火災が発生するなど不審な点も多い」と主張している<ref name="kudoh">[[工藤美代子]]「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」[[産経新聞出版]]</ref>。加えて[[能登半島]]付近に位置していた[[台風]]により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の[[天気図]]で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、[[本所区]]本所横網町(現在の[[墨田区]][[横網]])の陸軍本所被服廠跡地(現在の[[横網町公園]]。ほか、現在の[[墨田区立両国中学校]]や[[日本大学第一中学校・高等学校]]などもこの場所に含まれる<ref group="注釈">陸軍本所被服廠跡地の面積が[[東京ドーム]]の1.5倍であるため。</ref>)で起こった[[火災旋風]]を引き起こしながら<ref>[https://doi.org/10.5026/jgeography.84.4_204 相馬清二:被服廠跡に生じた火災旋風の研究]地學雜誌 Vol.84 (1975) No.4 P204-217, {{DOI|10.5026/jgeography.84.4_204}}</ref>広まり、旧東京市の約43%を焼失し<ref>[https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.55.577 目黒公郎、柳田充康、高橋健文、関東大震災の延焼火災に与えた建物被害の影響について] 生産研究 Vol.55 (2003) No.6 P577-580, {{DOI|10.11188/seisankenkyu.55.577}}</ref>鎮火したのは40時間以上経過した2日後の[[9月3日]]10時ごろとみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5,385人のうち、火災が9万1,781人を占めた)ともいわれている<ref>[http://www.asahi.com/special/saigaishi/1923shinsai/ 関東大震災 学ぶべき教訓] 朝日新聞DIGITAL</ref>。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた[[市川市|市川]]まで吹き飛ばされた人もあった<ref>{{Cite book|和書|author=[[竹久夢二]]|author2=[[川村花菱]]|author3=[[山村耕花]]|title=夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ|origdate=1923|date=2003-9-1|publisher=クレス出版|id={{全国書誌番号|20469876}}|isbn=4877331956|page=66}}</ref>。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は、[[東京都復興記念館]]に収蔵・展示されている。
<gallery>
本所石原方面大旋風之真景,帝都大震災画報.jpg|thumb|本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図
Great Kanto Earthquake9.jpg.JPG|大日本麦酒吾妻橋工場(現・[[リバーピア吾妻橋]])内鉄柱
Great Kanto Earthquake10.jpg.JPG|丸善ビル