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[[東京都立九段高等学校|第一東京市立中]]、[[東京高等学校 (旧制) |東京高校]]理科甲類を経て、1935年、[[東京帝国大学]][[工学部]]航空学科を卒業。中学は[[首席]]で卒業、高校では3年間学級総代をした<ref>他校での[[級長]]で、正確には高1の一学期は除く</ref>。中学では[[バスケットボール部]]に所属<!-- 暫定的な推定。確証なし。-->し、高校では[[音楽部]]の委員をした。中学5年の学校紛擾では起こした側で全校を巻き込んだ。高校でも紛擾が頻発し学級総代としてスト派・不参加派の間で苦しんだ。航空学科を選んだのは、兄の糸川一郎(東大工学部土木科卒)に「東大でいちばん入試の難しいところはどこですか」と訊いた時、「そりゃお前、航空学科だよ。9人しか入れないし、毎年、各高等学校のナンバーワンがやってくるんだ」と言われたことが理由であった<ref>草柳大蔵『実力者の条件』p.177、他説あり</ref>。[[中島飛行機]]に入社し、[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の[[九七式戦闘機]]、[[一式戦闘機|一式戦闘機 隼]]、[[二式単座戦闘機|二式単座戦闘機 鍾馗]]などの設計に関わった。また、独力で[[ジェットエンジン]]を研究・開発。しかし実験段階では多くの批判をあびた。1941年11月、飛行機会社技師として陸軍の命令のままに動かされることに疑問を感じ<ref>鈴木五郎「Ki-84 疾風」サンケイ出版1975 p.137、他説あり</ref>、そのような制約のない軍事技術開発を中心に扱った[[千葉県]][[千葉市]]にあった[[東京帝国大学第二工学部]][[助教授]]に就任。1948年、同[[教授]]。1949年 東京大学 工学博士。論文の題は「音響イムピーダンスに依る微小変異測定法に関する研究 」<ref>博士論文書誌データベース</ref>。
 
1954年2月、[[東京大学生産技術研究所]]内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及びアヴィオニクスと、超音速空気力学)研究班を組織した。もともとAVSA研究班は1975この1950まで代の中頃20分で糸川が語った構想の詳細については[[太平洋]]横断する[[旅客機]]「ハイパ#エピソソニック[[輸送機]]実現目標にしていた参照。糸川は[[ロケット]]に全く乗り気でない国や企業を口説いて回った。1955年、AVSA研究班はSR研究班に改組した。1955年3月には東京都の[[国分寺市]]で、さらに同年6月には千葉県千葉市の東京大学生産技術研究所でグループは[[ペンシルロケット]]の水平発射実験を行い、また同年8月からは[[秋田県]]の[[秋田ロケット実験場|道川海岸]]で飛翔実験を行った。同月[[ベビーロケット]]を発射。1956年、[[カッパロケット]]を発射。以後1960年代は[[ラムダロケット]]、[[ミューロケット]]、[[おおすみ]]などに関わった。
 
1956年、[[日本ロケット協会]]を創立し、初代代表幹事に就任した。