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== 経歴 ==
[[明帝 (漢)|明帝]]の子として生まれた。[[66年]]([[永平 (漢)|永平]]9年)、重熹王の号を賜った。[[72年]](永平15年)、楽成王に封じられた。劉党は聡明で史書を良く読み、文字を校正するのを好んだ。[[章帝 (漢)|章帝]]と同年であったため、最も帝と親密であった。[[79年]]([[建初 (漢)|建初]]4年)、[[清河郡]]の[[繚県|繚]]・[[灌津県|観津]]、[[勃海郡]]の[[東光県|東光]]・[[景城県|成平]]、[[
劉党には非法のことが多かった。もと後宮の妓人であった哀置を章初という無官の人物の妻としてめとらせておきながら、哀置を召しだして楽成国の宮に入れ私通した。章初がこのことを上書して告発しようとしたため、劉党はひそかに哀置の姉の哀焦に金を渡して章初を殺させた。事件が発覚すると、劉党は内侍3人の首を絞めて殺害し、口封じをした。また亡き中山簡王[[劉焉 (中山王)|劉焉]]の傅婢であった李羽生をめとって小妻とした。[[95年]]([[永元 (漢)|永元]]7年)、楽成国の相がこのことを上奏した。[[和帝 (漢)|和帝]]は東光・鄡の2県を楽成国から削った。
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