「結城藩」の版間の差分

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結城秀康の転封後、結城城は破却され、以後しばらく大名領が当地に置かれることはなかった。一説には、結城一帯は当時全国屈指の[[養蚕業|養蚕]]地域であり、幕府がその利益を独占しようと図ったからだと言われている。しかし[[元禄]]年間には他の[[天領|幕府直轄領]]にも結城の養蚕技術が広められて、幕府が直接結城を保持する必要性が薄れていった。
 
結城に再び大名が配されたのは、[[元禄]]13年(1700年)に[[水野勝長]]が[[能登国]][[西谷藩]]より転封されたときである。勝長は改易された[[備後福山藩]]主[[水野勝岑]]の父・[[水野勝種|勝種]]の又従弟にあたる。福山藩改易後、藩祖であり家康の従弟に当たる宗家当主[[水野勝成|日向守勝成]]の功績が考慮され、勝長に家督相続が許され、元禄11年(1698年)に能登国内に1万石を与えられていた。その後、数度の加増の後、元禄16年(1703年)に結城城の再建を許され、以降[[城主大名|城主]]1万8000石<!-- ×取り(意味が異なります) -->の[[帝鑑の間|帝鑑間]]詰め[[譜代大名]]として、[[幕末]]まで続くことになる。
 
幕末には、藩主[[水野勝知|勝知]]と隠居の[[水野勝進|勝進]]が佐幕と勤王に分かれて対立し、互いに結城城を奪い合う争奪戦を起こしている。その後、新政府軍に捕らえられた勝知は隠居を命ぜられ、1000石を没収されて[[廃藩置県]]を迎えた
 
== 居城 ==
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