「廃藩置県」の版間の差分

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新政府直轄の府と県は合わせて全国の4分の1程度に過ぎず<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p152</ref>、また一揆などによって収税は困難を極めたため<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p65</ref>、新政府は当初から財源確保に苦しんだ。
 
当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であった。また軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、統率性を欠いた。そして各藩と[[薩長]]新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。[[戊辰戦争]]の結果、諸藩の債務は平均で年間収入の3倍程度に達していた<ref>勝田政治、「廃藩置県」、講談社選書メチエ、p86</ref>。財政事情が悪化したため、また統一国家を目指すために、自ら政府に廃藩を願い出る藩も出ていた([[鳥取藩]]主[[池田慶徳]]、[[尾張藩|名古屋藩]]主[[徳川慶勝]]、[[熊本藩]]主[[細川護久]]、[[盛岡藩]]主[[南部利恭]]など)<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p143</ref>。
 
明治3年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]](1871年[[2月8日]])、[[大蔵大輔]]・[[大隈重信]]が「''全国一致之政体''」の施行を求める建議を[[太政官]]に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」(軍事)・「教令率育ノ道」(教育)・「審理刑罰ノ法」(司法)・「理財会計ノ方」(財政)の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。