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[[1898年]]に[[イギリス]]が清国から租借し、[[イギリス海軍]]の管轄下に置かれ「ポート・エドワード」と呼ばれた。[[1900年]]には行政長官署が設置されてイギリス[[植民地]]省の管轄下に入った。[[清朝]]最後の[[皇帝]]となった[[愛新覚羅溥儀]]の家庭教師をつとめたイギリスの[[中国学]]者である[[レジナルド・ジョンストン]]が[[1926年]]から行政長官をつとめた。
 
[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]でイギリスは威海衛の返還を声明していた。[[1927年]]、[[介石]]によって建てられた[[介石政権|南京国民政府]]が、翌年に[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を完了させた後、[[1930年]][[10月1日]]に返還式が行われた。[[日中戦争]]では再び日本軍が占領している。
 
[[1945年]]に[[中華民国]]政府の下で威海衛市が成立し、中華人民共和国成立後の[[1950年]]、威海市(県級市)と改名、[[1987年]]現在の地級市に昇格した。中韓国交樹立(1992年)以前の[[1990年]]には[[大韓民国]][[仁川広域市|仁川直轄市]]との直通フェリー「金橋」号が就航し、韓国との関係を深めた。仁川港まで14時間の航海である。また、[[威海大水泊空港]]から韓国への航空便が運航されている。