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{{Seealso|国共内戦}}
 
[[ポツダム宣言]]が調印された[[1945年]][[9月2日]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) は指令第1号において台湾の[[日本軍]]に対して[[中華民国国軍]]の[[介石]]大元帥への投降を命じた。介石[[国民政府主席]]は、すでにその1日前([[9月1日]])、「台湾行政長官公署」と「台湾警備総司令部」を設置し、[[陳儀]][[陸軍大将]]を初代台湾行政長官兼台湾警備総司令官に任命していた。同年[[10月17日]]、[[国民政府]]の[[中国国民党|国民党]]軍([[国民革命軍]])と官吏あわせて1万人以上が米軍の全面的支援を受けて[[基隆港]]から上陸、台湾の領有を開始した。[[10月25日]]には、上海から到着したばかりの陳儀・初代行政長官と[[安藤利吉]]台湾総督兼台湾軍司令官との間で降伏文書の調印が行われた([[台湾光復]])。この日は現在も「[[台湾光復節|光復節]]」として台湾(中華民国)の休暇を伴わない記念日となっている。
 
台湾光復後まもなく、中国大陸では介石率いる[[中国国民党]]と[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]との[[国共内戦]]が本格化し、台湾では著しい[[物資不足]]と激しい[[インフレーション]]が襲った。[[1946年]]3月には早くも、長官公署の無能・腐敗を糾弾する「人民自由防衛委員会」が発足している。そして、[[1947年]][[2月28日]]の台湾住民と官憲の衝突をきっかけに台北市に[[戒厳令]]がしかれ、国民党軍や官憲による住民の弾圧・粛清が行われた([[二・二八事件]])。この事件により知識人を中心にわずか2週間余りの間に少なくとも約2万8千人が殺害され、今日に至る「[[本省人]]」と「[[外省人]]」の深い溝を作った。
 
米国の抗議を受け、介石は陳儀初代台湾行政長官を免職とし、台湾行政長官公署を廃止して[[台湾省|台湾省政府]]を設置し、[[魏道明]]を初代省政府主席に任命した。[[1948年]]末には、介石の腹心である[[陳誠]]を第2代省政府主席兼台湾警備総司令官に、長男である[[経国]]を中国国民党台湾省委員会主任委員に任命した。[[1949年]][[5月20日]]、台湾全土に戒厳令が布告された(この戒厳令は、経国政権末期の[[1987年]]7月にようやく解除された)。
 
[[1949年]][[4月23日]]、中華民国の首都[[南京市|南京]]が陥落すると、まもなく毛沢東率いる中国共産党が[[中国大陸]]をほぼ掌握し、[[10月1日]]、[[中華人民共和国]]の建国を宣言。国民党政権の国民政府は[[12月8日]]、[[台北市|台北]][[遷都]]を決定した。介石は台湾退却後も「中華民国こそが中国の正統政権」と主張し、台湾を「大陸反攻」の拠点と位置づけたのに対し、中国大陸の中華人民共和国政府は「台湾解放」を掲げた。こうして、中華人民共和国と中華民国が、それぞれ中国大陸と台湾を支配統治しつつ、互いに国家としての存在を否定し軍事的に対峙する「両岸関係」の歴史が始まった。
 
== 「解放台湾」と「反攻大陸」の時代(1949年~1978年) ==
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人民解放軍の[[金門島]]上陸作戦では国民党軍が激戦の末に勝利し、金門島を死守した([[1949年]][[10月25日]]、古寧頭の戦い)ものの、国共内戦は台湾に退却した中国国民党・国民政府に不利な情勢が続いていた。[[1950年]]1月には国共の和平工作([[双十協定]])に失敗して国民党への援助を打ち切ったアメリカの[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]政権が台湾海峡に介入しないとする声明を発表。これに勢いづいた共産党中央は、人民解放軍に空軍、海軍を創設して台湾の武力解放作戦に向けた準備を本格化させ、まず[[海南島]]と浙江省沖・[[舟山群島]]を相次いで武力制圧した。
 
[[1950年]]6月、[[朝鮮戦争]]が勃発。[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の進軍を「国際共産勢力の侵略」とみなしたトルーマン政権は、一転して台湾海峡に[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第七艦隊]]を派遣し、台湾海峡の中立化を宣言、「将来の台湾の地位は未定」と声明した([[台湾地位未定論]])。こうして、アメリカが米中全面戦争を恐れ、毛沢東政権による台湾侵攻と介石政権による中国大陸反攻のいずれも認めない方針をとったことにより、共産党の台湾“解放”作戦は頓挫した。
 
=== 台湾海峡危機 ===
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=== 第三次国共合作の模索 ===
中国は[[1955年]]ころから表向きの方針を「武力解放」から「和平解放」に転じた。まず、[[周恩来]][[国務院総理|首相]]が平和統一の話し合いを呼び掛けるとともに、国共内戦後アメリカに亡命した[[李宗仁]]元総統代行の秘書を通じて「第三次国共合作」による祖国統一を初提案した。毛沢東からは、国共内戦時の和平交渉団で国民党側の代表だった[[章士釗]]を通じて、「国共合作による平和統一」「台湾への高度な自治権保証」など、後の「[[一国二制度]]」案の原型となる提案がなされた。その後も[[1960年]]、密使を通じて、「外交権以外の自治権保証」「台湾への資金援助」などの四項目を提案、[[1965年]]には「介石の国民党総裁身分での大陸帰郷」「介石の長男・[[経国]]の[[台湾省 (中華人民共和国)|台湾省長]]への任命」「台湾陸軍四個師団の存置」など六項目を提案した。このころ、[[中国共産党中央委員会]]は、「台湾をアメリカに渡すより父子(介石及び経国)に残した方がよい」という台湾工作の大方針のもと、「一綱四目」(一綱:中台統一の原則、四目:軍政の政権への委任、中国中央による台湾への経済支援、台湾の社会改革の尊重、中台スパイ合戦の中止)を台湾政策として確立していた。
 
これに対し、台湾の介石は一貫して「大陸反攻」を掲げ、中国側の提案を拒否した。逆に[[1962年]]ころには、[[大躍進政策]]失敗を好機と捉えて大陸反攻を計画したが([[国光計画]])、全面戦争に発展することを恐れたアメリカ・[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]政権の反対で実行されなかった。その後も[[文化大革命]]の混乱に乗じて、「毛沢東討伐救国連合戦線」の結成を呼び掛けたり、[[中国人民解放軍|人民解放軍]]の寝返りを奨励するなどした。
 
=== 台湾・国府の国際的孤立化 ===
1949年以後、中華民国・[[国民政府]](国府)の実効支配は台湾とその周辺島嶼に限られていたが、あくまで「中国の正統政府」と自らを称し、アメリカの支援も背景に国連の議席や[[常任理事国]]としての地位を維持していた。また、「漢賊不両立」を掲げていた介石は、「反乱団体」と位置づけていた中華人民共和国との外交関係の両立を拒否し、同様に中国も「二つの中国」に強く反対していたため、他国は中華人民共和国か中華民国かどちらか一方との外交関係を迫られ、中台間で「外交戦争」(外交関係の奪い合い)が展開されていた。
 
1950年代から中華民国(台湾)と国交をもつ国は増え続け、[[1969年]]にピークの68カ国に達したが、1970年代に入ると「外交戦争」の形勢はにわかに逆転した。[[1970年]]、国連の中国代表権問題の表決で中共政権支持派が初めて優位になった。[[1971年]]には、アメリカ・[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]政権が対中接近政策に転換。国連も「介石の代表を追放する」という内容の[[アルバニア決議|国際連合総会決議2758]]を可決、中華民国は自ら国連を脱退した。国交をもつ国の数も中国に逆転され、台湾・国民政府の国際的孤立は一気に深まった。
 
== 両岸交流の再開と「平和統一」をめぐる攻防(1979年~2000年) ==
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[[1979年]]1月、中国がアメリカとの国交を樹立すると、中国の最高指導者に復権した[[鄧小平]]は、国家目標として「[[四つの近代化]]」と並んで「台湾の復帰による祖国統一の完成」を掲げ、訪米先で「二度と『台湾解放』という言葉を使わない」と言及して「平和統一」を全面的に打ち出した。[[全国人民代表大会|全人代]]常務委員会も「台湾同胞に告げる書」を発表し、両岸の交流([[三通]]四流<ref>「三通」は通航・通商・通郵、「四流」は学術・文化・体育・科学技術の交流を指す。</ref>)を呼び掛けた。さらに[[1981年]]9月には[[葉剣英]]全人代常務委員会委員長の名において「第三次国共合作」「三通四流」「台湾の高度の自治権の享受」など九項目を提案した(葉九点)。
 
これに対し、介石の後を継いだ[[経国]]総統は、中共政権とは絶対に「接触しない」「交渉しない」「妥協しない」という「三不政策」により中国側の提案を拒否。[[1982年]]に「[[三民主義]]による中国統一」を対中政策として確立・堅持した。鄧小平はあきらめず、経国との間で密使を通わせつつ、[[1983年]]6月、「国共両党の平等な対話」「台湾の司法権独立、軍隊保有の容認」「台湾当局の人事権の独立」など六項目を提案した(鄧六点)。一方では「[[二つの中国]]」につながる完全な自治権、三民主義による中国統一などに反対との立場も示し、「武力行使による統一」という選択肢も絶対に放棄しないとたびたび公言した。経国も[[1987年]]から[[:zh:廖承志致蔣經國先生信|沈誠]]という密使を北京に派遣して交渉を行っていた。
 
=== 中台交渉の開始 ===
中国大陸とは対照的にアメリカの庇護のもと経済発展を遂げた台湾では、1970年代末から[[民主化運動]]が活発化した。経国は政治改革を決断、[[1987年]]7月に38年間続いていた戒厳令を解除するとともに、集会・結社の自由、新聞発行の自由を認め、台湾住民の大陸訪問も解禁した。これにより1991年には台湾住民の大陸訪問が約100万人に達した。
 
[[1988年]]に経国が死去し、[[中華民国副総統|副総統]]から昇格した[[本省人]]の[[李登輝]]総統は、就任後まもなく「三不政策」の転換を図った。[[1989年]]5月、[[アジア開発銀行]]年次総会に当たり、台湾代表団が初めて北京に派遣され、[[人民大会堂]]で[[義勇軍進行曲|中国国歌]]の演奏を起立して聴いた。[[1990年]]7月には対中政策を統括する[[国家統一委員会]]を、[[1991年]]1月には対中窓口機関として[[海峡交流基金会]](海基会)を相次いで設立した。さらに、[[1991年]]5月、国共内戦への総動員体制の法的根拠となっていた[[動員戡乱時期臨時条款]]を約43年ぶりに廃止し、台湾が一方的に共産党との内戦状態の終了を宣言する形となった。こうして中台交渉の道を開く一方、[[国家統一綱領]]で中台双方が対等な「政治実体」であるとの前提で段階的に中国統一を目指す方針も策定し、暗に中国主導による[[一国二制度]]の統一方式を拒否した。
 
中国側は[[台湾独立運動|台湾独立]]を掲げる[[民主進歩党]](民進党)の合法化など台湾の民主化を警戒しつつも、海基会のカウンターパートとして[[海峡両岸関係協会]](海協会)を設立。民間実務機関という形をとりながら、両岸当局の接触・交渉が公の場で始まった。双方が[[一つの中国]]原則をめぐり激しく対立する中、[[1993年]]4月、[[シンガポール]]で[[辜振甫]]海基会[[役員 (会社)#董事長|董事長]](理事長)と[[汪道涵]]海協会会長による初の中台トップ会談が実現した(第一次辜汪会談)。
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[[2008年]]3月の総統選で当選した国民党の[[馬英九]]は、就任後まず中台関係の改善に乗り出した。[[九二共識]]受入れを表明し、中台関係の位置づけに関し、李登輝が打ち出した「特殊な国と国の関係」を否定し、「一つの国家の中の特殊な関係」を提起した。中台が外交関係の奪い合いの中止を呼び掛け、李登輝政権以来15年間続けてきた国連加盟運動を休止し、国連[[専門機関]]参加を推進する方針も表明した。陳水扁前政権が拒否していた中国からのパンダ受け入れも決定し、台湾でパンダブームが起きた。[[2008年]]12月には、香港[[鳳凰衛視]]のインターネット生放送で中国向けの談話も発表した。
 
中国側も、馬英九政権発足直後から積極的な対話姿勢を打ち出し、まず5月に胡錦濤と[[呉伯雄]]国民党主席の国共江陳会談を、6月に[[江丙坤]]海基会理事長と[[陳雲林]]海協会会長の江陳会談を、11月にAPECを利用した胡錦濤と国民党名誉主席の会談を相次いで実現させた。こうして民進党政権で長らく中断していた海基会・海協会ルートの江陳会談が、馬英九政権になってから年2回のペースで開かれるようになっている。また、中国は馬英九が呼び掛けた「外交休戦」を事実上受け入れ、2009年5月に台湾のWHO総会オブザーバー参加容認に方針転換した。2009年に制作された中国の国策映画である[[建国大業]]を[[国務院台湾事務弁公室]]主任の[[王毅]]の勧めで見た介石の孫で当時国民党副主席の{{仮リンク|孝厳|zh|蔣孝嚴}}が介石の愛国的一面が描かれたことを「客観的な歴史評価」と称賛<ref>{{Cite news|url=http://politics.people.com.cn/GB/1026/10411314.html|title=孝严盛赞《建国大业》 称中共对历史评价客观
|work=|newspaper=[[人民網]]|date=2009-11-19|accessdate=2017-11-06}}</ref>して台湾の国民党本部で毛沢東の孫と面会<ref>{{Cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/2664919|title=毛沢東と介石の孫同士が台湾で面会
|work=|newspaper=[[AFP]]|date=2009-11-18|accessdate=2017-11-28}}</ref>するなど両党の接近は著しかった。