「藤原為時」の版間の差分

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藤原為時は[[長徳]]2年([[996年]])正月25日の除目で[[淡路国|淡路]]守に任ぜられたが、3日後の28日に[[右大臣]]・[[藤原道長]]が参内して、俄に越前守に任ぜられたばかりの[[源国盛]]を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更した<ref>『[[日本紀略]]』後編十</ref>。下国である淡路国に比べ越前国は大国であり、国司としての収入には雲泥の差がある。この任官のいきさつについて、『[[古事談]]』に以下の逸話がある。
 
*一条天皇の時代に源国盛が越前守に任ぜられた。藤原為時は「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」の句を女房(女官)を通して奏上、[[一条天皇]]はこれを見て食事も喉を通らず、寝所に入って泣いた。藤原道長が参内してこれを聞き、自分の側近(『[[今昔物語集]]』では[[乳母]]子)で、[[越前国|越前]]守に任じられた(おそらく道長の推挙と想定される)ばかりの源国盛を呼び[[越前国|越前]]守を辞退させて、代わりを藤原為時とする[[除目]]を行った。その時、[[越前国|越前]]守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみ、国盛は衝撃のあまり病気になってしまい、秋の除目で[[播磨国|播磨]]守に任じられたが病は癒えずとうとう死んでしまった。
 
同様の話は『[[続本朝往生伝]]』『[[今昔物語集]]』<ref>『[[今昔物語集]]』巻24</ref>『[[十訓抄]]』など多数の[[説話]]集に掲載されており、除目のやり直しにより為時が淡路守から越前守に栄転したことは当時の人々の注目を集めたことが想定される<ref>久保田孝夫「越前守藤原為時の補任」『同志社国文学 16号』同志社大学国文学会、1980年</ref>。なお、この越前守変更の理由について、『[[権記]]』や『[[小右記]]』によると、前年の[[長徳]]元年([[995年]])9月24日に隣国の[[若狭国|若狭]]に[[北宋|宋]]の商人[[朱仁聡]]が来着する事件が起こり、その後若狭や越前に逗留している事から、その交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれたと言われている。