「知太政官事」の版間の差分

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== 概要 ==
知太政官事とは、文字どおり「太政官の事を知る」、つまり[[太政官]]の長官として万機を総攬する官職である。最初に知太政官事に任命されたのは、[[天武天皇]]の子[[忍壁皇子|刑部親王(忍壁皇子)]]で、ときに[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]])1月のことである。当時すでに[[大宝令]]が施行されており、令に[[太政大臣]]の官職が規定として存在していた以上、太政大臣を任命してもよいところである。それをあえて知太政官事という令外官の設置をもって代えたのは、[[近江令]]の下での太政大臣であった[[弘文天皇|大友皇子]]、[[飛鳥浄御原令]]の下での太政大臣であった[[高市皇子]]の存在を前提として、両者がともに[[皇太子]]ないしそれに準じる立場で[[天皇]]の共同統治者・政務代行者としての地位にあったことから、太政大臣の任命が皇太子指名に相当するものとの誤解を与え、当時の朝廷の首脳部により意図されていた[[草壁皇子]]の男系子孫による直系的皇位継承が不安定化することを避ける配慮が働いたものと考えられている。また、親王が皇族と言う出自によって大臣に任命されることが律令官制の進展と共に原則として勤務評価に基づいて官位を上げて官僚機構の最高位である大臣に至ると言う律令官制の理念に反すると考えられるようになったという側面もあった<ref>鈴木、[[2018年]]([[平成]]30年)、P201.</ref>。
 
== 経緯 ==
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ところが、[[養老]]4年([[720年]])8月、不比等は右大臣のまま死去。これを受けて、同月、やはり[[天武天皇]]の[[皇子]]である[[舎人親王]]が知太政官事に任命された。同時に、中央政府直属の軍隊の全指揮権を掌握する[[知五衛及授刀舎人事]]という名称の臨時の官職が設置され、同じく天武天皇の皇子の[[新田部親王]]が任命されている。不比等の死去が[[朝廷]]に与えた衝撃と緊張の大きさを物語る。翌年1月には、高市皇子の子であり、天武天皇の皇孫の世代ではもっとも有力な皇族である[[長屋王]]が不比等の後任の右大臣に任命されて、さらに太政官の補強が行われている。
 
舎人親王は[[天平]]7年([[735年]])11月に薨去し、ふたたび知太政官事は空席となった。ときの聖武天皇は35歳の壮年であり、もはや知太政官事は不要であったからである。しかし、わずか2年後、天平9年([[737年]])9月、[[高市皇子]]の子で[[長屋王]]の弟である[[鈴鹿王]]が知太政官事に任命される。これは、この年、おりから流行していた疫病により、[[左大臣]][[藤原武智麻呂]]、[[中納言]][[多治比県守]]、[[参議]][[藤原房前]]、参議[[藤原宇合]]、参議[[藤原麻呂]]が相次いで[[崩御#薨|薨去]]し、太政官を構成するメンバーがほぼ壊滅するという非常事態に対応するためであった。また、これまで[[親王]][[任官|任じられてきた]]知太政官事に[[天皇]]の孫で既に[[官人]]として[[従三位]]参議の地位にあった鈴鹿王が任命されたのも異例であった。この後、鈴鹿王は、天平9年(737年)に登用されて太政官の首班となった[[橘諸兄]]の勢力と、不比等の孫の世代の[[藤原氏]]の勢力とのバランサーの役割を演じ、天平17年([[745年]])9月に[[崩御#御|薨御]]した。
 
== 終焉 ==
鈴鹿王の没後、知太政官事の任命は最終的に途絶えた。鈴木琢郎は鈴鹿王は在任中に[[右大臣]]である橘諸兄に[[位階]]を逆転されたことや諸兄が天皇の勅裁を奉じて単独で政務を執行する権限(後世の[[上卿]]による上宣の原型)が認められて全ての政治的決定が太政官における合議を経る原則が崩れたことで知太政官事の政治的な立場や存在意義が低下したこと(鈴木は知太政官事の位置付けについて元々は[[太政大臣]]に准じてその下に置かれていたものが、鈴鹿王の時代に左右両大臣に准じてその下に引き下げられたとみる)、加えて天皇と血縁的に結びついた藤原氏の大臣が知太政官事に本来期待されていた天皇の{{読み仮名|輔弼|ほひつ}}と後見を行うようになったことで発展的解消を遂げたとしている<ref>鈴木、2018年(平成30年)、pp187 - 188・194 - 195.</ref>。
 
しかし、約200年後に編纂された『[[延喜式]]』には、親王が知太政官事に任命された際には、右大臣に准じて[[季禄]]を与える旨の規定がある。季禄は、帯びている[[官職]]の[[官位]]相当に応じて、[[位階]]を基準にして与えられる俸給であるが、官位相当のない知太政官事には季禄を与えることができないことから設けられた規定である。この規定はもともと[[慶雲]]3年([[706年]])に定められたものであるが、この規定が『延喜式』編纂に際して残されたことから、その時点でも、将来、知太政官事が復活する可能性がゼロではないと考えられていたことがうかがえる。
 
== 脚注 ==
<references/>
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* 竹内理三 「『知太政官事』考」 『律令制と貴族政権』 [[お茶の水書房]]、[[1968年]]。