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'''グラマースクール'''({{Lang-en-short|''grammar school''}})は、イギリスなどのおよび英語を主要言語と国の教育史におけるいて個の異なった種類ある[[学校]]のうちの1つである。現在この学校は[[中等教育]]を形成している。'''文法学校'''(ぶんぽうがっこう)ともいう。
[[中世]]におけるグラマースクールの当初本来の目的は[[ラテン語]]を教えることにあった。時を経てそのうち[[カリキュラム]]は広拡大し初めはまず[[古代ギリシャ語]]や時に[[ヘブライ語]]、後に[[英語]]などや他[[欧州の言語]]が含まれそして同様に[[自然科学]]や[[数学]]、[[歴史]]、[[地理学]]などの科目が含まれも教えことようになった。後期[[ビクトリア時代]]の後半グラマースクールは異なる教育制度を発展させていたスコットランドを除イギリス全土の各地、グラマースクールは中等教育を施すために再編成された。こうしたグラマースクールはイギリスの統治領でも設立され異なった手法各地それぞれ違う形に発展させてい英国領で創設されたものでもある
 
1940年代半ばから1960年代後半にかけて、グラマースクールはイングランドとウェールズで{{仮リンク|三分岐型教育制度|en|Tripartite System of education in England, Wales and Northern Ireland}}{{#tag:ref|グラマー、モダン、テクニカルの3類型の学校で構成される(藤井、p.269)。「トライパータイトシステム」、「三類型別」、「三課程制」とも。ここではもっとも一般的な「三分岐型」とする(藤井、p.8)。|group=note}}からなる公立中等教育の選択肢の1つとなり、北アイルランドでは継続している。1960年代から1970年代の非選択制の[[総合学校|コンプリヘンシブ・スクール]]{{#tag:ref|{{Kotobank|コンプリヘンシブ・スクール}}|group=note}}(総合制中等学校){{#tag:ref|藤井、事項索引p.7。|group=note}}へ移行すると、一部のグラマースクールは完全に独立し有償化したが、ほとんどの学校は廃止されるかコンプリヘンシブ・スクールになった。いずれの場合も多くの学校では校名に「グラマースクール」が残った。イングランドの一部の地域では、三分岐教育制度を維持しており、総合学校化された地域にも少数ではあるがグラマースクールが残っている。現存するグラマースクールには16世紀以前にその歴史を辿れるものも存在する。
== 概要 ==
[[中世]]のグラマースクールの当初の目的は、[[ラテン語]]を教えることにあった。時を経て、[[カリキュラム]]は広がり、初めは[[古代ギリシャ語]]や時に[[ヘブライ語]]、後には[[英語]]などの[[欧州の言語]]が含まれ、同様に[[自然科学]]や[[数学]]、[[歴史]]、[[地理学]]などの科目が含まれることになった。後期[[ビクトリア時代]]、グラマースクールは異なる制度を発展させていたスコットランドを除きイギリス全土で中等教育を施すために再編成された。こうしたグラマースクールは、異なった手法で発展させていた英国領で創設されたものでもある。
 
== 初期のグラマースクール ==
グラマースクールは1940年代半ばから1960年代後半までイングランドとウェールズで行われ北アイルランドで続く国立の中等教育の[[3部編成の教育制度]]の選択肢の一つとなった。1960年代から1970年代の非選択型の[[総合教育]]に移行するとともに、グラマースクールによってはほとんどが廃止されるか総合教育学校化したとはいえ、私立学校化し授業料を徴収することになった。どちらもこの学校の多くは、名称に「グラマースクール」を残した。イングランドの一部では、3部構成の教育制度を維持し、別の総合学校形式を残しているグラマースクールも数校ある。現在のグラマースクールには16世紀以前にその歴史を辿れる学校がある。
[[中世]]以来、グラマースクールは[[ラテン語]](後に他の古典的な言語)を教える学校であった。''Scolae grammaticales'' という用語は14世紀まで広く使われる言葉ではていなかったものの、こうした学校の最のもの[[{{仮リンク|キングズ・スクール (カンタベリー)|en|The King's School, Canterbury|)|label=カンタベリーのキングズ・スクール]]}}(597年創立)や[[{{仮リンク|キングズ・スクール (ロチェスター)|en|King's School, Rochester|label=ロチェスターのキングズ・スクール]]}}(604年)などのように6世紀から見られた<ref>{{cite book
 
==初期のグラマースクール==
[[中世]]以降グラマースクールは[[ラテン語]](後に他の古典的な言語)を教える学校であった。''Scolae grammaticales''は14世紀まで広く使われる言葉ではなかったが、こうした学校は古くは[[キングズ・スクール (カンタベリー)|カンタベリーのキングズ・スクール]](597年創立)や[[キングズ・スクール (ロチェスター)|ロチェスターのキングズ・スクール]](604年)のように6世紀から見られた。<ref>{{cite book
| author = [[William Henry Hadow|W.H. Hadow]] (ed.)
| title = The Education of the Adolescent
16 ⟶ 14行目:
| author = Peter Gordon | coauthors = Denis Lawton
| publisher = Woburn Press | location = London | year = 2003
}}</ref>
グラマースクールこうした学校ラテン語(教会の言語であるラテン語神父や僧侶になる者へ教えるため大聖堂や修道院に付属していた。音楽と韻(や典拝式)用の韻律詩教会暦のための天文学や数学教会運営のため暦)、法律(管理)などの宗教活動に必要な他の科目は、時必要に応じて加えられた<ref name="Spens Report">{{cite book
| author = Will Spens (ed.)
| title = Secondary education with special reference to grammar schools and technical high schools
| publisher = HM Stationery Office | location = London | year = 1938
| url = http://www.dg.dial.pipex.com/documents/docs2/spens.shtml
}}</ref>
 
[[Image:Winchester_College_Chapel.jpg|right|thumb|upright|ウィンチェスターカレッジの礼拝堂]]
12世紀からの後半における[[古代の大学]]の創設とともに[[ト以来、ラテン語が{{仮ヴィウムンク|三学 (教育リベラル・アーツ)|トリヴィウム]]en|Trivium|label=三学}}創設に見ら基盤とみなされるラテン語ようになる共にグラマースクールは[[リベラル・アーツ]]教育の入口となった。生徒は通常14歳からになり次第グラマースクールで教育を受け、卒業後は更に教育を受けるために大学や教会を目指したと考えられる教会から独立した最初のグラマースクール([[ウィンチェスター・カレッジ]](1382年)や[[イートン・カレッジ]](1440年)))など、教会から独立した最初のグラマースクール大学と密接な関係関わり、全寮制のまた寄宿学校として文字通り全的な学校ものになっていった<ref name="Spens Report"/><ref>{{cite book
| chapter = Chapter XV. English and Scottish Education. Universities and Public Schools to the Time of Colet
| author = Rev. T.A. Walker
33 ⟶ 31行目:
| year = 1907&ndash;21
| url = http://www.bartleby.com/212/
}}</ref>
これとは対照的に中世の村落自治体が創設した初期グラマースクールは、の例がブリッジノースが1503年に創立した[[{{仮リンク|ブリッジノース・グラマースクール]]|en|Bridgnorth Endowed School}}である<ref>J. F. A. Mason, The Borough of Bridgnorth 1157-1957 (Bridgnorth, 1957), 12, 36</ref>
 
16世紀の[[{{仮リンク|イングランドの宗教改革]]|en|English Reformation}}でほとんどの大聖堂付属の学校は閉鎖され、[[教会からの分離]]{{仮リンク|修道院解散|en|Dissolution of the Monasteries}}による資金で新たに創設された学校に置き換わった。<ref name="Spens Report"/>例えばウェールズに現存する最も古い現存の学校([[{{仮リンク|クライスト・カレッジ (ブレコン)|en|Christ College, Brecon|label=ブレコンのクライストカレッジ]]}}(1541年創立)や[[{{仮リンク|フリアー・スクール (バンガー)|en|Friars School, Bangor|label=バンガーのフリアーズ・スクール]]}}(1557年))創立)は、[[ドミニコ会]]修道院の跡地に創立さ建てられた。[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]は治世に多くの学校に出資しグラマースクールの重要な出資者になり、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]は[[{{仮リンク|ロイヤル・スクール(アーマ)|en|The Royal School, Armagh|label=アーマのロイヤルスクール]]}}を始めとしてアルスターに多くの「ロイヤルスクール」を創立した。理論的にはこうした学校は全ての人に開かれ学費の払えない生徒学費が免除されることになっていた。しかし、大半の貧しい子供の大多数は、子供彼らの労働が家族にとって経済的に家族を助け価値が高かっために入学できなかった。
 
[[{{仮リンク|スコットランドの宗教改革]]|en|Scottish Reformation}}では、[[{{仮リンク|グラスゴー高等学校|en|High School of Glasgow|label=グラスゴー大聖堂聖歌学校]]}}(1124年創立)や[[{{仮リンク|王立高等学校(エジンバラ)|en|Royal High School, Edinburgh|label=エジンバラ教会グラマースクール]]}}(1128年)のようなといった学校の管理教会の管理から[[村落バラ (スコットランドの行政区)|バラ]]評議会の管理に移り、村落バラは新たな学校も創設した。
 
宗教改革後聖書を学ぶことがますます重要視されるようつれてなり、多くの学校はギリシャ語と(場合よっては)ヘブライ語を科目に加えた。こうした言語えることは、それらがラテン語系ではないこラテン語に流暢なや、精通した教師の不足による弊害を招来しが妨げとなった。
 
16世紀から17世紀にかけてグラマースクールの設立は、例えばティヴァートンの裕福な商人[[{{仮リンク|ピーター・ブランデル]]|en|Peter Blundell}}が1604年に創立した[[{{仮リンク|ブランデル・スクール]]|en|Blundell's School}}のように貴族、豊かや富裕な商人、[[ギルド]]の寄付による公共の活動慈善事業になった。現存するうしたれらの学校の多くは、生き残りをかけて毎年恒例行事として「創設者記念日」の行事で今も創立記念日をわれている。通常は無料で土寄付によりの少年にラテン語としてギリシャ語を教える師匠の賃金をために寄付ことで授業料募る無償化しめに行われている。<ref name="Walford">{{cite book
| chapter = Girls' Private Schooling: Past and Present
| author = Geoffrey Walford
49 ⟶ 47行目:
| publisher = The Woburn Press | location = London | year = 1993
| pages = 9&ndash;32
}}</ref>
 
教育出から日没までの授業内容は、大抵は主にラテン語の[[丸暗記]]であった。流暢に使え操れるようにるために校長によっては英語話す生徒に対するを推奨するようにしていこともあった。生徒が可能作成できるまでは7年かかり、最終学年で翻訳を始めた。るのは習を校の最学年だったであろうが、修了するまでに偉大なラテン語の作家、劇、修辞学に完全に慣れ親しむようになる。った<ref>{{cite web
| url = http://www.likesnail.org.uk/welcome-es.htm
| title = Educating Shakespeare: School Life in Elizabethan England
57 ⟶ 55行目:
| year = 2003
| accessdate = 2008-10-01
}}</ref>理数系の知識。初歩的な計算能力や手書きのような知識技術軽視され稀に教わった時間に習うか、巡回する[[公証人]]のような旅する専門家わるこはあっも無視さ教えられた。
 
1755年、[[サミュエル・ジョンソン]]は「の『辞書は、グラマースクールを'''習うべき言語が文法的に正しくえられる授法で言語を学ぶ学校'''と位置付けた<ref>{{cite book
| title = [[:en:A Dictionary of the English Language|A Dictionary of the English Language]]
| author = Samuel Johnson | year = 1755
| authorlink = Samuel Johnson
}}</ref>
しかしこの時期までにこうした言語に対する需要は大きく減少していた。新たな商業階級は、現代の言語と商業科目を必要としていた<ref name="Walford"/>18世紀に創立されたグラマースクールのほとんどは、と英語も教えた。.<ref name="Sutherland">{{cite book
| chapter = Education | pages = 119&ndash;169
| author = Gillian Sutherland
72 ⟶ 70行目:
| volume = vol. 3
| year = 1990
}}</ref>スコットランドでは村落バラの評議会が学校のカリキュラムを更新したため[[アバディーングラマースクール]]のように名前だけは残しながらここで言うはやグラマースクールは最早スコットランドには存在しない。.せず、{{仮リンク|アバディーン・グラマースクール|en|Aberdeen Grammar School}}のように名を残すのみである<ref>{{cite book
| author = Robert Anderson
| chapter = The History of Scottish Education, pre-1980
80 ⟶ 78行目:
| pages = 219&ndash;228
| isbn = 0748609806
}}</ref>
 
イングランドでは商業カリキュラムを求める都市の中産階級の圧力は、評議員(しばしばたな入生から学費を請求徴収する学校の管財人に支され、従来寄付により支基金の後されながらを受ける校長により存在することも珍しくなかっの抵抗を受けた。稀に1774年の[[{{仮リンク|キングズ・スクール(マックルスフィールド)|en|King's School, Macclesfield|label=マックルスフィールドグラマースクール]]}}法や1788年[[ボルトンスクール|ボルトングラマースクール]]法のよう特別な議会律で環境がによって制定法をえられるこ更できた学校はほがあんど無かった<ref name="Walford"/>[[。{{仮リンク|リーズグラマースクール]]|en|Leeds Grammar School}}評議員管財人と校長の間のこうした争いから[[対立は{{仮リンク|大法官庁裁判所]]|en|Court of Chancery}}名な事件がお訴訟を引起こした。10年後エルドン卿(当時の[[大法官]]{{仮リンク|ジョン・スコット (初代エルドン伯爵)|en|John Scott, 1st Earl of Eldon|label=エルドン卿}}は、1805年に「寄付基金の本質をかように変える権限はなく、ギリシ語とラテン語を除き教えることを目的とした学校にドイツ語やフランス語、数学などを習う生徒に、そしてギリシ語とラテン語を教える目的以外の何意図さ校の需要に応じぼうとすこと学生を充ててならない」と判決した<ref name="Matthews">{{cite book
| title = The Register of Leeds Grammar School 1820-1896
| author = J.H.D. Matthews | coauthors = Vincent Thompson Jr
89 ⟶ 87行目:
| chapter = A Short Account of the Free Grammar School at Leeds
| chapterurl = http://uk.geocities.com/lgshistories/MatthewsHistory.html
}}</ref>。彼は一部の科目によっては古典的なとなる科目に加えることが可能とした妥協案を示したが、この裁定はイングランドを通じて中のグラマースクールに限定的な先例を与えた。グラマースクールはついに終末を迎えたようであっに思われ<ref name="Spens Report"/><ref name="Sutherland"/>
 
==ヴィクトリア朝のグラマースクール==
19世紀は財団法人立学校法で頂点に達した多くのグラマースクールへの改革があった。古典的な科目を残していることも珍しくないとはいえ、グラマースクールは以下の文学や科学のカリキュラムを学術的にグラマースクールに適応させて生き残った。
 
== ヴィクトリア朝のグラマースクール ==
1840年19世紀、基金立学校法により結果的にグラマースクール改革が起こった。グラマースクール文学的科学的なカリキュラムに従いながら、同時にしばしば古典的な科目を教えるより他の目保った学究志向の中等学校として再発見された。1840年のグラマースクール法より、グラマースクールの収入を古典的な言語の教育以外に当てること合法化しとなったが、変更は依然として校長の同意を必要とした。とかくするうちにの学校は[[ラグビー校]]の[[{{仮リンク|トーマス・アーノルド|en|Thomas Arnold}}が行なった[[ラグビー校]]の改革に則って再編成し、鉄道の普及により[[{{仮リンク|マールボロ・カレッジ]]|en|Marlborough College}}(1843年)のように広範なカリキュラムを教える新たな寄宿学校ができた。大学入学を目標と最初の女子校は、[[北{{仮リンク|ノース・ロンドン学寮学校]]・コレッジット・スクール|en|North London Collegiate School}}(1850年)と[[チェルテンハム女子大学]](18581858年に[[{{仮リンク|ドロシ・ビール]]|en|Dorothea Beale}}校長に任命されたことから)であ{{仮リンク|チェルトナム・レディーズ・カレッジ|en|Cheltenham Ladies' College}}だった<ref name="Walford"/><ref name="Sutherland"/>
 
[[{{仮リンク|1868年の公的パブリック・スクール法|en|Public Schools Act 1868}}設立された学より主要なパブリックスクール9法]]へと繋がる[[を改革した{{仮リンク|クラレンドン委員会]]|en|Clarendon Commission}}参考モデル先行する学校9校の評議員会を改革しトーントン委員会は残る財団法人基金学校グラマースクール782校を審査するために任命さのトーントン委員会(Taunton Commission)が設けられた。委員会は学校の分布が現在の人口に齟齬を来と一致しており学校数は特らず、設備制限されても大にばらつきがあり、とりわけ女子向けの学校と共に大いに質に纏まり設備限られてと報告した<ref name="Walford"/><ref name="Sutherland"/>委員会の目的は、現在の目的に合わせてこうした基金立学校を財団法人立近代的要請沿うように改革することで全国的な中等教育の創設システムを作ることであった。その結果、[[{{仮リンク|1869年の財団法人基金立学校法]]|en|Endowed Schools Act 1869}}{{#tag:ref|藤井、事項索引p.5。|group=note}}が制定され、個々の学校の財団化基金に関する強力し広範な権限のある財団法人を持つ基金立学校委員会を創設した。委員会は「ノーサンバーランドの男子校をコーンウォールの女子校に変更できる」と言われた。イングランドとウェールズ全域で少年に古典的な授業を無行う財団法人提供する基金立学校は、有償で少年や少女に広範なカリキュラムを教える学費を必要とする学校として(一部は競争的な奨学金付きで)再びモデル校化さ作り変えられた<ref name="Walford"/><ref name="Sutherland"/><ref>{{cite book
| series = The Cambridge History of English and American Literature in 18 Volumes
| date = 1907&ndash;21
104 ⟶ 100行目:
| author = J.W. Adamson
| url = http://www.bartleby.com/224/
}}</ref>
 
ヴィクトリア朝時代は[[セルフヘルプ]]の重要性が強調され、子供たちにきちんとした教育を受けさせようとする両親らは、古典的なコアカリキュラムを残す学校も珍くないつつのの現代的なカリキュラムのある新たな学校創設するきちんとを組織た教育受けさせようと子供達の為に[[セルフ・ヘルプ]]が重要だとの熱心な大議論が起こり、そうした親がいた。こうした新たな学校は、偉大な[[公的に設立された学校パブリックスクール]]を目指してカリキュラムや精神、野心をまねる傾性を真似しがあり、歴史的な理由としてから「グラマースクール」の名命名すつけることもくなかばしばあった。古い男子グラマースクールのある町に創立された女子グラマースクールは高等学校ハイスクール」と命名されることも珍しないあった
 
[[{{仮リンク|1907年の行政の行う教育法]]の下で補|en|Education (Administrative Provisions) Act 1907}}により、金を受け全ての中等学校は全て的な小学校出身の生徒のために返還義務のない奨学金として最低25%を提供する必要があっことを義務付けられた。このようにしてグラマースクールは1944年までイングランドとウェールズの様々な教育制度の一翼を担うことになてい<ref name="Spens Report"/><ref name="Sutherland"/>
 
==3分岐型教育制度におけるグラマースクール==
''詳細は{{仮リンク|三分岐型教育制度|en|Tripartite System of education in England, Wales and Northern Ireland}}を参照。''
{{main|3分岐型教育制度}}
 
{{仮リンク|1944年の[[1944年の教育法|教育法]]en|Education Act 1944}}は、イングランドとウェールズの全国的な国立中等教育を初めて創設し、[[1947年北アイルランド教育法]]に反映された。[[3分岐型の教育制度]]を形成する3種の学校の1つが、グラマースクールと呼ばれ、現存するグラマースクールの学術面の精神を広めることが求められた。グラマースクールは[[{{仮リンク|イレブンプラス]] (試験)|en|Eleven-plus|label=イレブンプラス}} で選ばれた生徒のうち最も知的能のあると思われを有する25%を対象にカリキュラムを教えることを意図した。
 
[[Image:Mgs side on view circa 2000.jpg|right|thumb|マンチェスターグラマースクール、直接補助金を受けるグラマースクールで最も有名なグラマースクール]]
2種類のグラマースクールがこの制度の下で存在した<ref name="New Anatomy">{{cite book
| title = [[:en:Anatomy of Britain|The New Anatomy of Britain]]
| author = Anthony Sampson
128 ⟶ 124行目:
| url = http://www.parliament.uk/commons/lib/research/briefings/snsg-01398.pdf
| accessdate = 2009-01-26
}}</ref>
* 完全な学校として「維持された」グラマースクール12001,200校余りがあった。かなり古くからある学校もあったが、ほとんどは新たにヴィクトリア朝から時代新たに創立されたり建設されたもの学校で、古くからあるグラマースクール出さた勉強熱心な環境でさと向上心のある勤勉さ雰囲気模倣するこ再現しようが求められしたものであった。
* [[{{仮リンク|直接金を受けるグラマースクール]]が|en|Direct grant grammar school}}もまた179校あり、国の制度から生徒の4分の1から2分の1が入学を認め国の制度か、残りの生徒は親が授業料を支払う生徒から成った。こうしれらの学校もま場合も、地元の当局方自治体からは相当に自由であり、[[校長会議]]の員であった。こうした学校には非常に古い学校が何校かあり、3分岐型教育制度に参加することが奨励された。直接金を受けたグラマースクールで最も有名な例は、三分岐型教育制度の最も率直な支持者のひとりである{{仮リンク|ジェームズ・ラスホルム|en|Eric James, Baron James of Rusholme}}を校長とする[[{{仮リンク|マンチェスターグラマースクール]]で、3分岐型教育制度最大の物怖じしない代弁者の一つであ|en|Manchester Grammar Schoo}}だった。
 
グラマースクールの生徒は、国の制度にお下で教育を受ける児童・生徒が受けられるの誰よりも最高の機会が与えられた。当初じめは[[{{仮リンク|学校修了 (イギリス)|en|School Certificate (United Kingdom|)label=学校修了明]])}}[[{{仮リンク|学校証明認定 (イギリス)|en|Higher School Certificate (England and Wales)|label=学校修了明]]}}目指取得するために勉強て教育が行われたが、それらは1951年に[[{{仮リンク|一般教育修了普通レベル|Oレベル]](普通en|GCE Ordinary Level}}(Oレベル)や[[一般教育修了上級レベル|Aレベル]](上級(Aレベル)における[[{{仮リンク|一般教育証明]]|en|General Certificate of Education}}試験に取って代わっ置き換えられた。対照的に[[近代、{{仮リンク|中等教育学校]]における極少数の生徒モダンスクール|en|Secondary modern school}}では、1960年代に学術度の低い[[{{仮リンク|中等教育修了明]]|en|}}(CSEとして知られる)が創設導入されるまで公的な試験を受ける生徒はほとんどいなかった。<ref>''[http://www.qca.org.uk/qca_6210.aspx The story of the General Certificate of Secondary Education (GCSE)]'', [[:en:Qualifications and Curriculum Authority|Qualifications and Curriculum Authority]].</ref>1960年代に[[{{仮リンク|ロビンズ報告]]|en|Robbins Report}}が実施されるまで[[パブリックスクール]]やグラマースクール出身の子供達は、たちが事実上大学入学機会を独占した。こうした学校は[[オックスブリッジ]]への競争を受けられ予備ための臨時を提供する唯一の学校でもあった。
 
3分岐型教育制度は[[回覧{{仮リンク|1965年の通達|en|Circular 10/65]]}}[[1976年教育法]]とともに1965年にイングランドとウェールズの大部分全面的に廃止された。数校が閉校し国費で維持されが、ほとんどのグラマースクールのほとんどは、近隣の[[総合学校]]にコンプリヘンシブ・スクール形成組織する他のために複の地元の学校と合併したが、数校は閉学した。この移行過程は[[ウェールズで急速に進み、{{仮リンク|カウブリッジグラマースクール]]としてこ|en|Cowbridge Grammar School}}のような学校閉鎖されると共にウェールズで急速に見られた。イングランドでは変化に抵抗する[[カウンティ]]私立学校[[インデペンデント・スクール]]何校かあり組織改編に抵抗したため、一様に実施されたわけではなかった<ref>{{cite paper
| author = Jörn-Steffen Pischke
| coauthors = Alan Manning
149 ⟶ 145行目:
| url = http://www.nfer.ac.uk/publications/other-publications/downloadable-reports/pdf_docs/slsfinalreport.pdf
|format=PDF| accessdate = 2008-03-20
}}</ref>
 
1975年の直接金を受けるグラマースクールに関する規程(助成中止)によりこうした学校は地元の当局の管理下で総合学校化するか学費で収入を賄う私立学校インデペンデント・スクールになるか選択を迫られた。51校が総合学校化し、119校が私立学校化しインデペンデント・スクールとなり、5校が「制度の受け入れを拒否し独立した学校になったりあるいは閉校した」<ref>{{cite hansard | title=Direct Grant Schools|url=http://hansard.millbanksystems.com/written_answers/1978/mar/22/direct-grant-schools | house=House of Commons | date=22 March 1978 | column_start=582W | column_end=586W }}</ref>。このように多くの学校は「グラマー」を冠しながら最早自由ではなかった。こうしたれらの学校は通常は入学試験によりまたで、時に面接で生徒を選んでいる抜した
 
1980年代の終わりまでにウェールズのグラマースクール全てとイングランドのほとんどの学校が閉校したり、するか総合学校化した。(時期にスコットランドでグラマースクールは公立学校でなくなる選択も行わから除外された。)多くのかつてグラマースクールだった学校の多く択型抜制を止めたとはいえものの、何校かは校名に「グラマー」を残した。数校これらのほとんどはコンペンシブ・スクールのままである1990年代に[[数校が{{仮リンク|一部選択型抜制学校 (イングランド)|en|Partially selective school (England)|label=一部選択型]]抜制}}か完全な選択型抜制になったとはいえ、こうした学校のほとんどは、総合学校のままでいる
 
== イギリスのグラマースクールの現状 ==
今日「グラマースクール」は広くイングランドと北アイルランドの完全選択型抜制の国立学校の1つを指す言葉になっている。
{{Seealso|イギリスの教育}}
 
=== イングランド:地域差選択ある ===
''詳細は{{see also仮リンク|イングランドのグラマースクール一覧|en|List of grammar schools in England}}を参照。''
 
1995年の[[労働党 (イギリス)|労働党]]大会で、[[当時の教育報道官{{仮リンク|ヴィッド・ブランケット]](当時教育担当代弁人)|en|David Blunkett}}は、労働党政権下での地域差選抜行わくすこ約束した。しかしながら労働党の1997年の選挙向けマニフェストでは「グラマースクールの入学政策に関する変更は、地域の親により決定される」と約束した<ref>[http://www.labour-party.org.uk/manifestos/1997/1997-labour-manifesto.shtml new Labour because Britain deserves better], Labour Party manifesto, 1997.</ref>労働党政権の[[下で{{仮リンク|1998年学校水準と枠組みに関する法律|en|School Standards and Framework Act 1998}}{{#tag:ref|「学校標準(水準)と本法」(武村、p.56)、「学校の水準と枠組みに関する1998年]]」(広瀬)、「学校水準及び枠組み法」とも(吉田、p.99)。|group=note}}に基づき、グラマースクールは初めて[[行政委任立定教育]]により位置付けられることになった<ref>[http://www.opsi.gov.uk/si/si1998/19982219.htm The Education (Grammar School Designation) Order 1998], Statutory Instrument 1998 No. 2219, UK Parliament.</ref><ref>[http://www.opsi.gov.uk/si/si1999/19992456.htm The Education (Grammar School Designation) (Amendment) Order 1999], Statutory Instrument 1999 No. 2456, UK Parliament.</ref>この。同は地域社会は学校の選を終わらせるための住民投票に向けたを請願する署名をどように行うか手順も定義した。<ref>[http://www.opsi.gov.uk/si/si1998/19982876.htm The Education (Grammar School Ballots) Regulations 1998], Statutory Instrument 1998 No. 2876, UK Parliament.</ref><ref>{{cite web
| title = A guide to petitions and ballots about grammar school admissions
| publisher = Department for Education and Schools
167 ⟶ 164行目:
| url = http://www.dfes.gov.uk/gsballots/main.shtml
| accessdate = 2008-10-01
}}</ref>署名活動。請願数箇所いくつかの地域で始められたが、唯一有投票を実施するのに必要な、資格を有する親の20%の署名を集めた地域があり、この段階で投票を始める必要があは1カ所だけだった<ref>{{cite news
| title = Campaign against 11-plus is faltering
| author = Judith Judd
173 ⟶ 170行目:
| work = [[:en:The Independent|The Independent]]
| url = http://www.independent.co.uk/news/education/education-news/campaign-against-11plus-is-faltering-697931.html
}}</ref>かように唯一投票。したって、これまで行われた唯一投票2000年の[[{{仮リンク|リポングラマースクール]]|en|Ripon Grammar School}}あるが、親は2対1で変革を拒否し退け<ref>{{cite web
| title = Grammar school ballots
| url = http://www.teachernet.gov.uk/management/atoz/g/Grammar_school_ballots/
| publisher = teachernet
| accessdate = 2008-10-01
}}</ref>うした過程れらの取り決め、教育と資格選抜に関する教育特別委員会(Select Committee for Education)から無駄で時間と資源の浪費と非難された<ref>{{cite web
| title = Select Committee on Education and Skills Fourth Report
| publisher = UK Parliament
184 ⟶ 181行目:
| url = http://www.publications.parliament.uk/pa/cm200304/cmselect/cmeduski/58/5802.htm
| accessdate = 2008-10-01
}}</ref>
 
[[Image:Grammar school ballots in England.png|thumb|right|300px|1998年の教育(グラマースクール投票)規定により明らかにされたグラマースクールの地域とグループ。LEA地方教育当局(LEA)は丸印が孤立したグラマースクールが均衡の学校の一段を示しているとはいえグラマースクール地域が満たされていることを示しているとみなしている。]]
現在まだ国立のグラマースクールが164校存在している<ref>[http://www.publications.parliament.uk/pa/cm200607/cmhansrd/cm070716/text/70716w0022.htm House of Commons Hansard, 16 July 2007: Columns 104W-107W], UK Parliament Publications & Records.</ref>数箇所で3部編成の。三分岐型教育制度に則り正式なグラマースクール制度を保っ維持しているに過ぎないのは数校である。こうした地域では、もっぱらグラマースクール教育の為に適当とみなされた子供の一部の子供(約25%)を[[確認するために{{仮リンク|イレブンプラス (試験]]で確認し)|en|Eleven-plus|label=イレブンプラス}}を用いているに過ぎない。グラマースクールにこうした生徒が適合する入学志願者が多すぎればる場合は、兄弟姉妹や距離、宗派といった信仰などの基準が選考に用いられる。こうした制度は、依然としてバッキンガムシャー、ラグビー、ウォーウィックシャーのストラットフォード地区、ウィルトシャーのソールズベリー地区、グラウセスターシャーのストラウド、リンカーンシャーとケント、メドウェイのほとんどの地区にある<ref>{{cite web
| title = Admissions to secondary school 2009 booklet
| publisher = Kent County Council | year = 2009 | page = page 4
197 ⟶ 194行目:
| url = http://www.medway.gov.uk/secondary_2009.pdf
| accessdate = 2009-05-31
}}</ref>
圏のうちトラフォードとウィラルのほとんどの地域は、特別が選択制である<ref>{{cite paper
| title = The Comparative Evaluation of GCSE Value-Added Performance by Type of School and LEA
| author = David Jesson
212 ⟶ 209行目:
| publisher = [[:en:National Foundation for Educational Research|National Foundation for Educational Research]]
| url = http://www.nfer.ac.uk/publications/other-publications/conference-papers/pdf_docs/schagen01.PDF
|format=PDF}}</ref>
 
他の地域では、においてグラマースクールはロンドン郊外の村落数箇所に見られるように異なる包括的なカウンティーにおける主に非常に高度な特別な選択制の学校として存続し続けている。LEAにが、それ以外の場合アウター・ロンドンの行政区のってはうに包括的な行政区に見られる。いくつかの地方教育当局(LEA){{#tag:ref|岡本p.91。広瀬、p.20。|group=note}}は11歳の2%程度がグラマースクールに可能きるものとしている。こうした学校はしばしば応募者が定員を量の寄付金幅に上回ること要求されあり、入学試験でいくら払ったかの成績順よって奨金が与えられる。執行者をで上位に入ろうともす彰してい<ref>{{cite news
| title = Grammars show they can compete with best
| author = Sian Griffiths
220 ⟶ 217行目:
| date = 2007-11-18
| url = http://www.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/education/article2889322.ece
}}</ref>
 
主要政党のどこからもこれ以上の変更急進的な改革は提案されていない。左翼政党の多くが、特別は選択的な学校があることで包括が総合的な構造の土台傷付けている壊すと主張するが、労働党政権は地域の動きにグラマースクールに関する決定を委ねたがいかなる決定何の変化起こっていない。更に政府の教育政策は、高度な{{仮リンク|スペシャリスト・スクール|en|Specialist schools programme}}、アドバンスド・スクール(advanced schools)、{{仮リンク|ビーコン・スクール|en|Beacon Status}}{{#tag:ref|教育改善に成功したと認定される学校のこと(岡本、p.95)。|group=note}}や、教育の基準を引き上げる方法として提案された[[職業学校]]、高度学校、[[指針学校]]、同様の学校ととも構想ある種の階層がより、中等教育にある種のヒエラルキーの存在することを受容しけ入れているように見えである。多くのグラマースクールは、この課程を特色としプログラムに取り上げられておりより低い段階の選、職業学校スペシャリストスクールで認められている<ref>{{cite news
| title = Anger over Labour's grammar school deal
| author = Richard Garner | work = [[:en:The Independent|The Independent]] | date = 2001-12-01
232 ⟶ 229行目:
| date = 2002-11-16
| url = http://www.socialisteducation.org.uk/CB2.htm
}}</ref>
保守党員の多くはグラマースクールの拡大に対して支持求め表明しているが、2006年から以降党の政策は、としてバッキンガムシャーケントのように人口が増え完全な選抜制を行なっている特別な地域で人口の増加に対処する場合を除いてき、新たなグラマースクールを建設しない方針である。[[影の教育大臣{{仮リンク|デビッド・ウィレッツ]](陰の教育大臣)|en|David Willetts}}は、中産階級のが、子供の試を受けさせるために現在多額の投資をしているのでため、グラマースクールは最早もはや貧困の経歴背景にした階層の持つ才能ある子供に与えられる学習の機会を提供していないと主張している。<ref>{{cite news
| title = Tories turn against grammar schools
| work = [[:en:The Daily Telegraph|The Telegraph]] | date = 2007-05-17
| author = Liz Lightfoot
| url = http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1551687/Tories-turn-against-grammar-schools.html
}}</ref>
 
=== 北アイルランド:選択型の拡大 ===
''詳細は{{see also仮リンク|北アイルランドのグラマースクール一覧|en|List of grammar schools in Northern Ireland}}を参照。''
[[Image:Lumen Christi College SMC.jpg|right|thumb|デリーのルメンクリスティカレッジ]]
総合型に移行する試みは(ギリスングランドのその他の地域として総合型へ移行する試みは[[北アイルランド]]の管理に移することで延期さ政のにより遅れている。その結果、北アイルランドは現在でもグラマースクールを維持しており、ほとんどの生徒がイレブンプラスで入学する。
1989年の改正による公開自由入学制度方式改革から以降、うした学校はイングランドと違い)は異なり収容能力を引き上げる必要義務があり、定員数は加しいる。<ref>{{cite paper
その結果、依然として北アイルランドは[[イレブンプラス]]で入学するほとんどの生徒とともにグラマースクールを残している。
1989年の「公開入学制度」改革からこの学校は(イングランドと違い)収容能力を引き上げる必要があり、増えてもいる。<ref>{{cite paper
| title = Educational Effects of Widening Access to the Academic Track: A Natural Experiment
| author = Eric Maurin | coauthors = Sandra McNally
253 ⟶ 249行目:
|format=PDF| accessdate = 2008-04-04
}}</ref>
2006年までにグラマースクール69校が転校する生徒してきた未成年者の42%を収容し、7%だけている、全ての転校生をこれらの一群の上位30%30%の中から取り込ま受け入れているのは7校だけである<ref>{{cite web
| title = Education Minister's Statement for the Stormont Education Committee
| author = Caitríona Ruane
259 ⟶ 255行目:
| url = http://www.deni.gov.uk/index/85-schools/6-admission-and-choice/statement_for_the_education_committee_48_kb_.pdf
|format=PDF| accessdate = 2008-04-04
}}</ref>
 
イレブンプラスは長く論争の的になっていて、北アイルランドの政党は反対の姿勢をってきた。11歳の進学先として統一論連合主義者は11歳で成績による選抜を受けるグラマースクールを擁護維持する方向傾きがちであるのに共和党員統一主義者はイレブンプラスを廃止する方向に傾いている。[[民主統一党 (北アイルランド)|民主統一党]]は2006年10月の[[{{仮リンク|セントアンドリュ合意]]|en|St Andrews Agreement}}の一環として州のグラマースクールの存続を保証するよう主張している。契約対象的より[[シン・フェイン党]]はイレブンプラスの廃止を保障している主張しそれに続くであろういかなる制度拒否する権利を確保した主張している。
 
最新のイレブンプラスは2009年入学に向けて2008年に行われた。新たに転科できるのは14歳であるが、この時点より先は学校は専門化し、グラマースクールが未来に果たす役割が提供されると考えられる<ref>{{cite press release
最新のイレブンプラス試験は、2008年に行われた(2009年度入学試験)。
14歳で申し込む転校時点で、この後に学校の専門化と共にグラマースクールの将来の役割が示されるかもしれない。<ref>{{cite press release
| title = Minister Ruane outlines education reforms
| date = 2007-12-04
| publisher = Department of Education, Northern Ireland
| url = http://www.northernireland.gov.uk/news/news-de/news-de-041207-minister-ruane-outlines.htm
}}</ref>
しかしグラマースクール25校の協が、2009年度共通入学試験を行うことを目指し、カトリック系学校の頂点に位置するカト{{仮の学校である[[|メンクリスティカレッジ]]|en|Lumen Christi College}}も、独自の試験を行うことを計画している。<ref>{{cite news
| title = 'Test' schools accept D grade pupils
| author = Lisa Smith
282 ⟶ 277行目:
| work = Belfast Telegraph
| url = http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3532649.ece
}}</ref>
 
==イギリス以外のグラマースクール==
グラマースクールはイギリス領の様々なところで創立され、それぞれの領土独立した為に以降異なる発展を遂げている。
 
===オーストラリア===
19世紀中葉半ばオーストラリアの植民地には[[富裕層]]が息子をイギリスの学校に送るために[[私立学校]]がオーストラリア植民地に創立された。この学校はイングランドの[[パブリックスクール]]に刺激を受けたものだったが、「グラマースクール」と名乗ることも珍しくなかった<ref>{{cite book
この学校はイングランドの公的に設立された学校を参考にし、「グラマースクール」と呼ぶことも珍しくなかった。<ref>{{cite book
| title = The Social Production of Merit: Education, Psychology, and Politics in Australia, 1900&ndash;1950
| author = David McCallum
| publisher = Routledge | year = 1990
| isbn = 9781850008590
}}</ref>
初期の例に{{仮リンク|ローンセストンチャーチ・グラマースクール|en|Launceston Church Grammar School}}(1846年)、{{仮リンク|パルトニー・グラマースクール|en|Pulteney Grammar School}}(1847年)、{{仮リンク|ジーロング・グラマースクール|en|Geelong Grammar School}}(1855年)がある。宗教に関係のない{{仮リンク|シドニー・グラマースクール|en|Sydney Grammar School}}(1857年)や[[クイーンズランド州]]のグラマースクールを除けば、19世紀に創立されたグラマースクールは全て[[イングランド国教会]](現在の[[豪州聖公会]])に付属していた。クイーンズランドでは{{仮リンク|1860年グラマースクール法en|Grammar Schools Act 1860}}により州が支援する宗教に関係のないグラマースクールの設立を規定した。10校が設立され、8校が今なお存続している<ref>[http://www.legislation.qld.gov.au/LEGISLTN/CURRENT/G/GrammarSchR04.pdf Grammar Schools Regulation 2004], Queensland parliament.</ref>
初期の例に[[ローンセストンチャーチグラマースクール]](1846年)、[[パルトニーグラマースクール]](1847年)、[[ジーロンググラマースクール]](1855年)がある。
宗教に関係女子ない[[シドニためのオストラリア最初のグラマースクール]](1857年)や[[は、{{仮リンイー|ブリスベズランド州]]の・女子グラマースクールを除けば|en|Brisbane Girls Grammar School}}(1875年)で19世紀まもなく他創立されたグラマースクールは全て[[イングランド国教会]](現在の[[豪州聖公会]])に付属していた。<ref>{{cite book
クイーンズランドでは[[1860年のグラマースクール法]]が州が支援する宗教に関係のないグラマースクールの設立を規定した。
10校が設立され、8校が残っている。<ref>[http://www.legislation.qld.gov.au/LEGISLTN/CURRENT/G/GrammarSchR04.pdf Grammar Schools Regulation 2004], Queensland parliament.</ref>
少女のためのオーストラリア最初のグラマースクールは、[[ブリスベーン女子グラマースクール]](1875年)で、まもなく他にも創立された。<ref>{{cite book
| title = Knowing Women: Origins of Women's Education in Nineteenth-century Australia
| author = Marjorie R. Theobald
| publisher = Cambridge University Press | year = 1996
| isbn = 9780521420044
}}</ref>
 
1920年代、[[{{仮リンク|ビクトリア連合グラマースクール]]|en|Associated Grammar Schools of Victoria}}の会員などのを含む他の宗派のグラマースクールが創立され、この傾向は現在も続いている。今日グラマースクールという用語はクイーンズランド法令でのみ定義されている。オーストラリアにおいて「グラマースクール」は全国的に学費のかかる私立学校であり、現代のイングランドのグラマースクールに相当するのは、{{仮リンク|セレクティブスクール|en|Selective school}}である。
今日グラマースクールはクイーンズランド法令でのみ規定されている。
オーストラリアを通じて「グラマースクール」は総じて学費の高い私立学校である。
現代のイングランドのグラマースクールに相当するのは、[[選択]]型の学校である。
 
===カナダ===
[[オンタリオ州]]では1870年までグラマースクールは[[中等教育学校]]に属し嵌まった。
 
===香港===
[[香港]]ではグラマースクールは第一職業科目ではなく、伝統的なカリキュラムを受け提供す([[職業]]科目と言うよりも)中等教育学校である。
 
===アイルランド共和国===
[[アイルランド共和国|アイルランド]]において、教育は、[[伝統的に教]]が経営派ごと関わっ編成されている。イギリスの宗教それ関わる則ったグラマースクール1871年に[[アイルランド国教聖公会]]によって設立され、1871年の[[廃止政教分離原則|政教分離]]により廃止されるまでのアイルランド国教会員の為に設立されあった。何校かは主にプロテスタントの学生の為に広く行われを対象とする私立学校として何校かが残っている。アイルランドの多くで疎らな国内におけるプロテスタント人口のほとんどが散在している性質を与えるこの学校は考慮して、授業料が必要で寄宿生を収容することもくないばしばである。このような学校が{{仮リンク|バンドン|en|Bandon, County Cork}}<ref>{{cite web |url=http://www.bandongrammar.ie/mission.htm |accessdate=2007-02-13 |title=Bandon Grammar School: mission and ethos |quote=Bandon Grammar School is a co-educational, boarding and day school founded in 1641, with an historic and valued association with the Church of Ireland. }}</ref>、[[ドロギー]](1956年より以降は[[クエーカー]]により運営されている<ref>{{cite web |url=http://www.quakers-in-ireland.ie/archive/TFW06.htm#dgs |title=Religious Society of Friends (Quakers) in Ireland: Drogheda Grammar School |quote=This year sees the 50th anniversary of Quaker involvement with Drogheda Grammar School. At the time a Quaker committee took over the running of the school... |accessdate=2007-02-13 |year=2006}}</ref>)、{{仮ンク|ダンドーク|en|Dundalk}}<ref>{{cite web |url=http://www.dundalkgrammarschool.ie |title=Dundalk Grammar School homepage |quote=Since 1739 the school has been closely associated with the Incorporated Society for Promoting Protestant Schools in Ireland. |accessdate=2007-02-13 }}</ref> [[スライ]]<ref>{{cite web |url=http://www.sligogrammarschool.org/ourschool.htm |title=Sligo Grammar School: the school |quote=The school is one of a small number of schools in the Republic of Ireland under Church of Ireland management |accessdate=2007-02-13}}</ref>にある。そ他に多くの有料学校がある。1967年9月に[[ったが、それらは教育大臣{{仮リンク|ドノウ・オマリー]]大臣|en|Donogh O'Malley}}が1967年9月より共和導入した包括的大規模中等教育の始めから設立された他の地域学校は、多くの国立コミュニティースクールコミュニティーカレッジ地域短期学校、総合制中等学校に吸収併合された以前の授業料の必要な学校が多く含まれている。例えば、コークグラマースクールとしてはアシュトン総合学校に置き換わっえられ、コーク・グラマースクールがある.<ref>{{cite web |url=http://www.ashton.ie/history.htm |accessdate=2007-02-13 |title=Ashton School: history |quote=Ashton School, as a comprehensive school, was founded in September 1972 when Rochelle School and Cork Grammar School merged on the Grammar School site. }}</ref>
 
===シンガポール===
[[シンガポール]]がイギリスの植民地だった時、イギリス人宣教師が{{仮リンク|ラッフルズ学園|en|Raffles Institution}}{{仮リンク|ラッフルズ女子学校|en|Raffles Girls' School (Secondary)}}{{仮リンク|カノッサ修道院、英中学校シアン・スクール|en|Saint Anthony's Canossian Secondary School}}{{仮リンク|アングロ・チャイニーズ・スクール|en|Anglo-Chinese School}}や{{仮リンク|メソディスト女子学校・ガールズ・スクール|en|Methodist Girls' School, Singapore}}のような名門グラマースクールをイングランドの宣教師が創立した。1965年に独立すると、このような学校は全ての全された的な学校制度に統合されたが、多くは後に私立学校になるか自治権独立採算制ある学校になった。
 
===アメリカ合衆国===
[[Image:Latin Public School.jpg|thumb|[[ボストン・ラテン・スクール|ボストンラテン学校]]]]
イギリスをモデルにしたグラマースクールが[[13植民地|植民地時代]]に創立されたが、一番最初の学校1635年に[[ラテン語学校|ラテングラマースクール]]として立された[[ボストン・ラテン・スクール|ボストンラテン学校]]を皮切りに植民地時代に創立された。である<ref>{{cite web
| title = History of Boston Latin School
| url = http://www.bls.org/cfml/l3tmpl_history.cfm
334 ⟶ 322行目:
| url = http://www.britannica.com/EBchecked/topic/74909/Boston-Latin-School
| accessdate = 2008-09-13
}}</ref>
1647年、[[マサチューセッツベイコロニ湾植民地]]は{{仮リンク|マサチュセッツ教育法|en|Massachusetts School Laws}}{{#tag:ref|{{Kotobank|マサチューセッツ教育法}}|group=note}}を制定し、グラマースクールを創立するのに少なくとも100世帯の郡区が必要と定め法律を制定し、同様の法律が他の[[ニューイングランド]]植民地で続いた。この学校は初めは大学入学の準備として古典言語を若者に教えたが、18世紀中葉半ばまでに多くは実用的な科目を含むようにカリキュラムを拡大した。それにもかかわらず多くの、より実用的な学校から競争競合より人気が衰えた。「グラマースクール」の名前は、10歳から14歳の子供のための学校により採用され、後には小学校により採用されたが、現在は僅かに使われているのみである。.<ref>{{cite encyclopedia
| title = Grammar School
| encyclopedia = Encyclopedia of Children and Childhood in History and Society
342 ⟶ 330行目:
| accessdate = 2008-09-13
| location = New York | publisher = Macmillan Reference Books | year = 2003
}}</ref><ref>See [http://www.onelook.com/?w=grammar+school definitions of grammar school] in most U.S. dictionaries.</ref>
 
==参照 注釈 ==
{{Reflist|group=note}}
 
== 概要出展 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
翻訳
 
{{main|3分岐型教育制度}}成立まで
*藤井泰『イギリス中等教育制度研究』風間書房、1995年。ISBN 4-7599-0929-X
労働党政権以降
*{{Cite journal| 和書 |author = 岡本徹| title= イギリス新労働党の教育政策(1) : 1997年~2001年 |journal= レファレンス|year= 2006|volume= 47|pages= 89 - 112 |url= https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=878&item_no=1&page_id=13&block_id=62 |accessdate = 2020-9-15}}(広島修道大学リポジトリ)
*{{Cite journal| 和書 |author = 武村秀雄| title= 第二次世界大戦後のイギリス(イングランド)の教育政策と行政に関する歴史的変遷と評価 : -階級社会における平等と機会均等主義を中心に- |journal= 桜美林論考. 心理・教育学研究|year= 2015|volume= 6|pages= 45 - 67 |url= https://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=ir&lang=ja&type=pdf&id=http%3A%2F%2Fid.nii.ac.jp%2F1598%2F00000962%2F&naid=110009943732 |accessdate = 2020-9-15}}(桜美林大学学術機関リポジトリ)
*{{Cite journal| 和書 |author = 広瀬裕子| title= 政治主導改革の可能性 -イギリスにおける「学校教育の水準と枠組み に関する1998年法」導入を題材に- |journal= 日本教育行政学会年報|year= 2015|volume= 41|pages= 19 - 36 |url= https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeas/41/0/41_19/_article/-char/ja/ |accessdate = 2020-9-17}}(J-STAGE)
*{{Cite journal| 和書 |author = 吉田多美子| title= イギリスの教育改革の変遷 -ナショナルカリキュラムを中心に~ |journal= レファレンス|year= 2005|volume= 41|pages= 99-112 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999865 |accessdate = 2020-9-15}}(国立国会図書館デジタルコレクション)
 
==関連項目==
351 ⟶ 353行目:
*[[ラテン語学校]]
*[[イングランドの教育史]]
*[[{{仮リンク|グラマースクールに関する議論]]|en|Grammar schools debate}}
 
==外部リンク==
365 ⟶ 367行目:
 
{{学校}}
 
{{デフォルトソート:くらまあすくうる}}
[[Category:イギリスの中等教育]]