「朽網親満」の版間の差分

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永正13年([[1516年]])8月、[[田染荘]]政所の[[古庄治重]]父子が府内に召し出され、謀叛の疑いで監禁された。
父子はかろうじて脱出に成功し、宇佐宮番長だった[[永弘氏輔]]の館に入った。古庄の上官だったため自身にも嫌疑をかけられていることを知った親満は、道場寺(現在の行橋市)に逃亡・潜伏。一党は高勝寺([[玖珠城]])や松木山城などに立て籠ったが攻略され、宇佐郡の大副村(現在の院内町)で数十人が宇佐郡代の[[佐田氏]]らに討ちとられた。
 
ここに至り、親満は[[吉弘親就|吉弘新兵衛親就]]を使者に立て、[[国東郡]]の[[田原親述]]・[[田原政定|政定]]兄弟や佐伯氏らと共に大野・直入・玖珠郡の勢力を集め[[大友親綱]]の子[[大友親実|大聖院宗心]]を擁立し家督を奪取せんと主張。反乱の準備に取りかかり、一万田六郎([[一萬田常泰]]か)、吉弘新兵衛、小田原兵部、倉成縫殿らと協議、国外へ追放されていた田原の帰国を待った。しかし、田原や宗心の態度は消極的であった。