「プシェムィシル包囲戦」の版間の差分

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| combatant1 = {{flag|Austria-Hungary}}
| combatant2 = {{flag|Russian Empire}}
| commander1 = {{flagicon|Austria-Hungary}}スヴェトザル・ボロイェヴィッチ
| commander2 = {{flagicon|Russian Empire}}アンドレイ・セリバーノフ
| strength1 = 138,000<ref name="hsz1">{{cite web|url=http://www.huszadikszazad.hu/1915-aprilis/politika/przemysl-leltara|title=Przemysl leltára|trans_title=account of Przemyśl|date=April 1915|publisher=Huszadik század|location=Budapest, Hungary|language=Hungarian|accessdate=2 August 2011}}</ref>
1914年8月にロシア軍は[[東プロイセン]]と東ガリツィア(現在のウクライナとポーランドの国境付近)へ攻勢をかけた。東プロイセンへの攻勢は[[タンネンベルクの戦い]]で大敗し撃退されたが、東ガリツィア方面の攻勢は成功した。ニコライ・イヴァノフ将軍の南西方面軍は[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]上級大将のオーストリア・ハンガリー軍を圧倒し、ガリツィアの戦いではオーストリア方面の全戦線で160km前進し、[[カルパティア山脈]]まで進出した。プシェムィシル要塞はガリツィア内でのオーストリアの持つ唯一の拠点となったが、9月28日にはロシア軍に完全に包囲された。ガリツィアを完全に占拠すると、ロシア軍は[[シレジア|シュレジエン]]やカルパティア山脈を越えてハンガリー平原へ進軍する事が可能になる為、プシェムィシルの防御はドイツにもオーストリアにも重要な意味を持つようになった。
 
街周辺を囲む7つの新たな防衛線の構築のために総延長50kmほどの塹壕が掘られ、1000kmほどの有刺鉄線が使われた。要塞内には127,000人の守備兵と18,000人の市民がロシア第3軍の6個師団に包囲さた。プシェムィシルの守備隊はオーストリア・ハンガリー帝国の当時の情勢をよく反映しており、日々の命令は15の言語で発布されていた。オーストリア人、ポーランド人、ユダヤ人、ウクライナ人は同じ包囲された都市に混在しており、共に砲撃に晒された。飢餓と[[コレラ]]が蔓延し、死傷者が増えるにつれて民族間の不和は深刻になり、緊張が走った<ref>A War in Words, p.70, Svetlana Palmer & Sarah Wallis, Simon & Schuster 2003</ref>。
 
== 1度目の包囲 ==
10月31日、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]は[[ヴィスワ川]]の戦いに破れ、[[ワルシャワ]]への攻撃を中止した。その結果、[[スヴェトザル・ボロイェヴィッチ]]の第3軍は[[サン川]]のラインまで引き、ヒンデンブルクの提案したポーランド中央部への攻勢を中止した。11月9日、ロシア軍は再度プシェムィシルの包囲を開始した。ドミトリエフの第3軍は前線任務に回され、要塞攻囲は、あらたに予備役兵を主体として編成されたセリバーノフ将軍の第11軍が行うことになった。セリパーノフはドミトリエフとは違い、要塞への正面攻撃を行わず、兵糧攻めを行い降伏させる事にした。1914年12月中旬までロシア軍は要塞へ砲撃を行い続けた。オーストリア・ハンガリー軍の補給総監の評価ではプシェムィシルの貯蔵物資は3月中には尽きてしまう見込みだったので、1914年から1915年の冬の間、プシェムィシルの包囲を解くため、コンラードはカルパティア山脈で攻勢作戦を命じたが、真冬で防衛軍に有利な山岳地形という条件のなか、オーストリア・ハンガリー軍は大損害を出した。
 
1915年2月にボロイェヴィッチは別の救援軍をプシェムィシルへ送ったが、2月の終わりに解囲の望みは潰えた。この頃にはセリバーノフの軍には十分な火砲を用意されており、3月13日には北の防衛線を攻略した。大急ぎで作られた新たな防衛線もロシアの攻撃に晒されたが、その間にロシアに有用な物資を与えないために、都市を破壊するための時間は稼げた。3月19日に、守備隊の内、一万弱は東方約60キロ先の友軍陣地を目指すべく、ほとんど自殺的な包囲突破作戦を行ったが、この動きはロシア軍に察知されており、容易に撃退され、要塞に逃げ帰れたものはわずかだった。もはや物資も望みも尽きたので、守備隊は、要塞内の軍事的な価値のあるものをすべて破壊しつくした後、3月22日、残存する守備隊117,000の兵はロシア軍に降伏した<ref>Rothenburg, G.  ''The Army of Francis Joseph''. West Lafayette: Purdue University Press, 1976. p 185.</ref>。捕虜の中には9人の将軍と93人の佐官と2,500人の将校がいた<ref>Rothenburg 1976, p.  185.</ref>。
 
== 結果 ==