「松田道」の版間の差分

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|墓地=
|国籍= {{JPN}}
|出身校= {{flagicon|USA}} [[ブリンマー大学]]
|著名な実績= 女性で初めての同志社専門学校(現在の[[同志社女子大学]])の校長
|配偶者=
== 生涯 ==
=== 生い立ちから学生時代 ===
松田道は、[[1868年]]([[慶応]]4年9月7日)、[[丹後国]][[中郡 (京都府)|中郡]][[峰山町|峰山]](現在の[[京都府]][[京丹後市]][[峰山町]]室)にて、松田甚八の次女として誕生した<ref name="教文館"/>。生家は旧峰山藩主の屋敷跡にあったという<ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p"/>。時の京都府知事・槇村は学業をよく奨励したので、松田道の父母もこれに倣い、子ども達を学校に通わせるのを好んだ<ref name="峰山小学校同窓会誌12p”12p">{{Cite book|和書|author=峰山小学校創立八十周年記念事業委員会 |title=『峰山小学校同窓會誌 八十周年記念 |publisher=峰山小学校創立八十周年記念事業委員会 |date=1953 |page=12 |isbn=}}</ref>。
 
創立当時の[[京丹後市立峰山小学校|峰山小学校]]在学中は冬は藁靴を履いて通い、習字を習いに自宅を訪ねても面倒がらずに面白い話をしてくれた壮年の「高木先生」と、その近所に住み、積雪の日などは自ら背に負って自宅まで送り届けてくれた若い「柴崎先生」のことは晩年まで忘れることはなかった<ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p"/>。後年自らも教鞭をとるにいたり、両先生の師弟に対する慈愛を胸に刻んで人の世の明るさを感じていたという<ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p"/>。
 
小学校を卒業後は、[[鴨沂高等学校|京都府立第一女学校]]の前身である[[女紅場]]に入学した<ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p"/>。鴨川沿いの寄宿舎での生活は楽しく、行燈を数十も灯して読書や習字に親しみ、叡山を眺めて川辺を散策するなどした<ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p"/>。在学中に得た最大の喜びは、旧加賀藩の御右筆だったという舎監教諭から、「君が名の道ひとすじに学び得て松の操と人に知られよ」という和歌を短冊にしたためて贈られたことだという<ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p"/><ref name="丹後地区広域市町村圏事務組合">{{Cite web |url=https://www.city.kyotango.lg.jp/material/files/group/3/seisaku-hokokusho.pdf |title=近世・近代における郷土の先覚者 丹後地区広域市町村圏事務組合2市2町制作連携会議調査報告書 |format=PDF |publisher =丹後地区広域市町村圏事務組合 |accessdate=2020-03-17}}</ref>。在学中の[[1882年]](明治15年)に洗礼を受け、キリスト教に入信した<ref name="教文館"/>。
 
[[女紅場]]普通学科を3年で卒業した後は、[[1884年]](明治17年)に[[同志社女子大学|同志社女学校]]に入学した<ref name="教文館"/>。同志社女学校の創立は日米両国の協力によるもので、学校長は[[新島襄]]であったが、創立や学校運営に関わる経費はアメリカ側から支出されていた<ref name="同志社五十年裏面史347p">{{Cite book|和書|author=青山霞村 |title=同志社五十年裏面史 |publisher=青山嘉二郎 |date=1931 |page=347 |isbn=}}</ref>。そのため、[[1885年]](明治18年)に新島が欧米を外遊して留守の間に、不満を抱いていた[[宣教師]]らによって経営者は誰かという問題が提議され、女学校は廃止の危機にさらされる<ref name="同志社五十年裏面史347p"/>。在学中の生徒26名のうち上級生らが中心となって学校存続の嘆願書を作成し、書道の嗜みがあった松田道が清書して提出した<ref name="同志社五十年裏面史347p"/>。この嘆願書は無視されたが、状況をみかねた[[大澤善助]]らの尽力により、女学校は維持されることとなった<ref name="同志社五十年裏面史347p"/>。
 
[[1887年]](明治20年)、松田道は[[フェリス女学院大学|フェリス和英女学校]]に転学し<ref name="教文館"/>、英語を学んだ<ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p"/>。[[1892年]](明治25年)、フェリス和英女学校を卒業し、同志社女学校専門科文学科に入学<ref name="教文館"/>。[[1893年]](明治26年)、当時華族女学校で教授を務めていた[[津田梅子]]の提唱した米国留学生候補者募集の第1回目の学力試験に合格し、渡米奨学金を得てミス・スティーブンス学校、[[ブリンマー大学]]に留学した<ref name="教文館"/><ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p"/>。留学先での暮らしは、寄宿先ではアメリカの学友と文化的な日々を過ごし、長期休暇にはホームステイ先でのびのびと好きなことをして過ごした<ref name="峰山小学校同窓会誌13p”13p">{{Cite book|和書|author=峰山小学校創立八十周年記念事業委員会 |title=『峰山小学校同窓會誌 八十周年記念 |publisher=峰山小学校創立八十周年記念事業委員会 |date=1953 |page=13 |isbn=}}</ref>。唯一、食事の時間に遅れないことだけが課せられた義務であったという<ref name="峰山小学校同窓会誌14p”14p">{{Cite book|和書|author=峰山小学校創立八十周年記念事業委員会 |title=『峰山小学校同窓會誌 八十周年記念 |publisher=峰山小学校創立八十周年記念事業委員会 |date=1953 |page=14 |isbn=}}</ref>。
 
=== 帰国後の活動 ===
[[1899年]](明治32年)、米国より帰国し、[[神戸女学院大学|神戸女学院]]に赴任した<ref name="教文館"/>。 [[1904年]](明治37年)から同志社女子部で教鞭をとり、在職中の[[1908年]](明治41年)から[[1911年]](明治44年)まで、再び、ブリンマー大学と[[コロンビア大学]]に留学した<ref name="百年史通史1,822p"/>。大正時代以降の同志社大学における女子部の発展期に教頭に就任し、のち[[1922年]]([[大正11年]])2月1日に同志社女学校校長に就任し、[[1927年]](昭和2年)12月まで校長を務めた<ref name="九十年小史261p">{{Cite book|和書|author=同志社社史史料編集所 |title=同志社九十年小史 |publisher=学校法人同志社 |date=1965 |page=261 |isbn=}}</ref>。校長就任は、前任の校長である[[中瀬古六郎]]が、化学の研究に専念したいとして1922年(大正11年)1月7日に辞任した後を受けてのことである<ref>{{Cite book|和書|author= |title=同志社百年史 通史編一 |publisher=同志社 |date=1979 |page=821 |isbn=}}</ref>。女子部創設以来、はじめての女性校長であった<ref name="九十年小史261p"/>。
 
同志社女学校は、この時代の女学校では珍しく、あまり校則で女学生を束縛せず、服装も制限されておらず、女学生らは華美でない程度におしゃれを楽しみ、自分の家より学校の方がよいという者もいるほど自由な校風を歓迎した<ref name="九十年小史262p"/>。大正時代の中期には、同志社女学校への入学者が増えるようになり、1927年(昭和2年)には1,449名に達した。
 
=== 退職後の活動 ===
[[1935年]](昭和10年)10月15日から[[同志社幼稚園|今出川幼稚園]]長を務めた<ref name="教文館"/>。天津第一日語学校でも教鞭をとった<ref name="教文館"/>。[[1949年]](昭和24年)、[[日本基督教団]]総会議長から、受洗後67年の表彰を受けた<ref name="教文館"/>。晩年は宮津市栗田で農家を営んでいた姪のもとに身を寄せ<ref name="峰山小学校同窓会誌12p”12p"/>、[[1956年]](昭和31年)、郷里の峰山で永眠した<ref name="教文館"/>。享年87。
 
== 人物 ==
== 参考文献 ==
* 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年
* 功績のある郷土の著名人調査検討会議『[https://www.city.kyotango.lg.jp/material/files/group/3/seisaku-hokokusho.pdf 近世・近代における郷土の先覚者 丹後地区広域市町村圏事務組合2市2町制作連携会議調査報告書]』丹後地区広域市町村圏事務組合 、2011年
* 峰山小学校創立八十周年記念事業委員会『峰山小学校同窓會誌 八十周年記念』峰山小学校創立八十周年記念事業委員会、1953年
* 同志社五十年史編纂委員会『同志社五十年史』同志社交友会、1930年
 
== 外部リンク ==
 
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