「プロイセン公国」の版間の差分

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[[ファイル:Image-Koenigsberg, Map by Merian-Erben 1652.jpg|thumb|17世紀の[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]]]
ポーランドの宗主権喪失は民族にかかわらず住民の間で歓迎されなかった。というのも、プロイセンの住民はブランデンブルクの[[絶対君主制|絶対主義]]がプロイセンに導入されることを恐れ、ポーランド王の宗主下に留まることを望んだためだった。プロイセン首都ケーニヒスベルクの住民は{{仮リンク|ヒエロニムス・ロト|en|Hieronymus Roth}}を指導者としてヴェーラウ条約とオリヴァ条約を拒否し、プロイセンが「疑いようもなくポーランド王の領内にある」と主張した<ref name="JJ">Janusz Jasiński, ''Polska a Królewiec'', Komunikaty Mazursko-Warmińskie nr 2, 2005, p. 126.{{pl icon}}</ref>。[[クラクフ条約]]によりプロイセンがポーランド王の領内に組み入れられたとき、ケーニヒスベルク市が同意したのに対し、ポーランドからの分離独立にはケーニヒスベルク市からの同意がなかったのである<ref name="JJ" />。ケーニヒスベルク市民はヤン2世に助けを求めたが、フリードリヒ・ヴィルヘルムは1662年に軍を率いてケーニヒスベルクに入城、市民に忠誠の誓いを迫った。その後の数十年間、ポーランド王の宗主下に戻る動きはあったが、悉く失敗に終わった。
 
=== 王国への昇格 ===