「秋田城」の版間の差分

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秋田城は朝廷の支配域の北上にともない出羽柵を移転したものと捉えられるのであるが、8世紀当時の秋田地方では大規模な集落の跡が確認されておらず、[[後城遺跡]]のような城柵の進出にともなって形成された集落が城柵の近傍に存在する程度であった。すなわち当時の秋田地方は人口が希薄で、移転当初の出羽柵は朝廷の支配域の北辺に突出しており、出羽柵(秋田城)の設置にともなって城柵周辺に蝦夷や柵戸移民が混在する集落が形成されたものと推測されている{{sfn|伊藤 (2006)|p=167}}。
 
秋田に移った出羽柵は、760年([[天平宝字]]4年)3月19日付の『[[丸部足人解]]』において「阿支太城」と表記されており、この頃秋田城に改称したものと考えられている{{sfn|伊藤 (2006)|p=144}}。『[[続日本紀]]』、780年([[宝亀]]11年)8月23日の条では、秋田城へ派遣された[[鎮狄将軍]][[安倍家麻呂]]の具申に対して朝廷から「秋田城は、前将軍や宰相が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したことが見え、760年頃に秋田城へ機構改編したことを裏付ける。
 
このときの[[安倍家麻呂]]と朝廷の応答において秋田城の停廃が検討されたが、朝廷は秋田城の放棄を認めず、かえって軍兵を遣わして鎮守とし、鎮狄使または[[国司]]1名を専当として秋田城の防護にあたらせるものとした{{refnest|group=注釈|『続日本紀』宝亀十一年八月乙卯条}}{{sfn|伊藤 (2006)|p=144}}。これにより、[[国司]]次官である出羽介が'''[[秋田城介]]'''(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽国北部の統治にあたることとなった。