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廉頗のいなくなった趙は、秦王政(後の[[始皇帝]])の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため、趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」<ref>『史記』</ref>といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが、廉頗が趙にいた頃から不仲だった[[奸臣]]である[[郭開]]の謀略で使者が買収されてしまう。そして、趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺矢」<ref>「使者と会談中に3度も小用に立った」「使者と会談中に3度も失禁し、しかも気づかなかった」の意であり、どちらの意かは諸説ある</ref>と讒言した。このため、趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。
 
廉頗は後に[[楚 (春秋)|楚]]に亡命し、将軍に任命されるも功を立てることはなく寿春で病没した。
 
== 人物・評価 ==
* 非常に大食漢だったと伝えられていて、1[[斗]](10[[升]])の米と10[[斤]](約2.2㎏)の肉を食ったといわれている。
* 晩年の廉頗は望郷の念を抱いており、「(合戦をするのであれば)趙の人を使って戦いたい」と述べた。
* [[司馬遷]]は『史記』で廉頗に対する直接の評を与えていない。だが、廉頗を藺相如と並ぶ斜陽の趙の柱石と見なしていたようであり、藺相如・[[趙奢]]・[[李牧]]と並ぶ名将として列伝を構成している。『[[蘇子古史]]』では廉頗を高く評価し、「国家の柱石」と評している。