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== 略歴 ==
シェルハースの音楽的キャリアは、1968年にリヴァプールの様々なバンドでベースを弾くことからスタートし、[[デッカ・レコード|デッカ]]内の[[デラム・レコード|デラム]]レーベルに所属するソウル・バンド、Bernie & the Buzz Bandでシングルをリリース。その後、1970年に[[ソフトロック]]・バンド、ナショナル・ヘッド・バンドでついにキーボードを担当してツアーを行った。バンドには、ギターとフルートのニール・フォードやドラムのリー・カースレイク([[ユーライア・ヒープ]])が在籍していた。彼らは[[イエス (バンド)|イエス]]のプロデューサーの[[エディ・オフォード]]によってプロデュースされた1971年のアルバム『アルバート 1』をリリースしたが、まったく成功しなかった。シェルハースの次の行き先は、[[ゲイリー・ムーア]]・バンドとのアルバム『[[グラインディング・ストーン]]』を1973年からレコーディングすることであった。レコーディングの後、[[シン・リジィ]]の1973年のアルバム『[[西洋無頼]]』におけるオルガン・セッションを含む、ソロ・プロジェクトなどを行うためにムーアの元を離れた。
 
1975年7月、シェルハースは[[デイヴ・シンクレア]]が脱退した後、[[キャラヴァン]]で鍵盤を弾くよう依頼された。シェルハースはバンドとワールド・ツアーを行い、3枚のアルバムをレコーディングした。『聖ダンスタンス通りの盲犬』 (1976年)、『ベター・バイ・ファー』 (1977年)、そして1994年までリリースされなかった『クール・ウォーター』である。1978年夏、キャラヴァンがバラバラになると、シェルハースはアルバム『ブレスレス - 百億の夜と千億の夢 -』 (1978年)に伴うワールド・ツアーにおいて[[キャメル (バンド)|キャメル]]に参加する申し出を受け入れた。当時、キャメルには、キャラヴァンですでに一緒に演奏していた従兄弟同士の[[リチャード・シンクレア]](ベース、ボーカル)とデイヴ・シンクレア(キーボード)もメンバーとして含まれていた。